インドネシアの宗教まとめ

インドネシアの宗教まとめ

「インドネシアの宗教」と聞いて思い浮かぶのは毎年のラマダン期間中にプアサ(断食)するドライバーさんや会社のスタッフ、断食明けのレバラン休暇期間中のムディック(帰省)による大移動、犠牲祭当日朝に響き渡る生贄としての牛やヤギの悲痛な鳴き声、中華系インドネシア人が熱心に信仰するカトリックやプロテスタント(クリスチャン)、時々出会う宗教とは一線を画して生きる仏教徒などです。

5世紀頃に中部ジャワを中心にインドの文化・宗教・思想に影響された仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、15世紀以降にマタラム王朝がイスラム化し、18世紀にイスラム教のマタラム王朝がジョクジャカルタのSultanとスラカルタ(ソロ)のSusuhunanに分裂する過程で、イスラム色が強くなったりジャワの土着宗教と融合しイスラム色が薄れたり、地域ごとに独自の宗教色に変わっていきました。

インドネシアはスハルト大統領の長期独裁政権が終わり、2000年代に入って最初の大統領直接選挙によって選出されたユドヨノ大統領の時代から民主化という言葉が広く使われるようになったと記憶していますが、民主化とは主権が立法府や行政府ではなく国民に帰属させる動きであり、法に抵触しない範囲で国民の活動や権利は保護されます。

それではイスラム法(シャリーア)は民主主義の法律と適合するのかという問題ですが、主権は神のみに帰属すると考えた場合は民主主義と相入れませんが、実際に実行していくのは人間だと寛容にとらえれば民主主義に抵触せず、これまでインドネシアは後者の立場を取っていました。

インドネシアでは宗教的規範に縛られない道徳的感覚が強く、LGBTに対する考え方やコロナ禍による貧困者支援などでは、宗教的規範と社会活動と分けて考える良心的な庶民感覚が生きていますが、近年の刑法改正による婚外性交渉の禁止、同性愛者を法的に規制するという時代に逆行する動きもあります。

無宗教の日本人でもインドネシアで生活していれば、否応なく宗教と向かい合わざるを得ない場面が必ず出てくるわけで、インドネシア人から「死ぬのが不安じゃないのか」「神が居ないのならこの世で何でもやりたい放題じゃないか」などとストレートに問い詰められることで、日本で生活していた時には曖昧なままにしていた神をはじめて意識することになります。

インドネシア人と結婚する場合には、イスラム教ならイスラム宗教事務所KUA(Kantor Urusan Agama)、非イスラム教なら民事登録局CatatanCipil(PencatatanCipil)に婚姻を登録し、結婚証明書を発行して貰う必要がありますが、結婚を契機に書類上だけでなく本気でイスラム教やキリスト教に入信する人もいれば、特定の宗教の教義になじめないものの自分なりの神についての考えを整理して完結させる人もいます(自分は後者)。

当ブログでは僕と同じようにインドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような宗教的出来事についての記事を書いています。

キリスト教

インドネシアのカトリックとクリスチャン

16世紀にカトリックがサン・ピエトロ大聖堂の改築工事費用を賄うために、神による罪の許しを表す証明書である免罪符を販売したことに反抗したマルチン・ルターが、宗教改革という大義名分によって派生させたのがプロテスタント(クリスチャン)です。

プロテスタントクリスチャンの賛美歌と言えば、かつてウーピー・ゴールドバーグ主演の「天使にラブソングを」でゴスペルが一躍有名になりましたが、世界的にはアメリカンポップっぽい現代的な旋律の歌が流行のようです。

インドネシアのカトリックとクリスチャン
インドネシアのカトリックとクリスチャン 【16世紀の宗教改革で分離したプロテスタント】

インドネシアのキリスト教徒は人口の3%弱を占めるカトリックと、7%弱を占めるクリスチャンと分類され、クリスチャンとは正確にはKristen Protestanと呼ばれる宗教改革後に分裂したプロテスタントを信仰する人々であり、礼拝時に歌われる讃美歌もカトリックとは異なり現代のポップミュージック調です。

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インドネシアのクリスチャンの悪魔祓い

日本人には馴染が薄いのですが、インドネシアでは悪魔に取りつかれた人に出会うことは珍しくなく、牧師や祈祷師が悪魔を取り払うために神に祈り悪魔と会話する様子は、さながらホラー映画の様相です。

キリスト教的価値観では、人間誰しも自分の中に悪魔が潜んでおり、それが何らかのきっかけで表面に出て来るという考え方については、背景にどのような宗教が有るかの違いだけで、基本的に理解できる話であり、そういう考えがあることを認めることは大切なことだと思います。

インドネシア人の悪魔祓い
インドネシアのクリスチャンの悪魔祓い 【心の中に潜むサタンを除霊のような方法で退散させる儀式】

有名なホラー映画「エクソシスト」ではカトリック神父が少女の悪魔を取り払う話でしたが、インドネシアでも心の中に潜むサタンを除霊のような方法で退散させるクリスチャンの悪魔祓いの儀式があり、何世代にも渡って取り憑いてきたサル、蛇、トカゲ、お婆さんなどの悪魔を剥ぎ取るには簡単ではありませんでした。

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宗教によって異なる「死んだらどうなる」の考え方

仏教ではこの世に生まれてきた奇跡に感謝し、現世を一生懸命生きようという発想の下にあり、生命の進化の過程の結果として奇跡的にここに命が存在することを認識できるという意味で演繹的な立場にあると言えます。

キリスト教も仏教も安楽死に否定的(自殺厳禁)で、尊厳死はやむを得ずという考えで一致しているのは、命は仏教的に38億年の歴史の中を脈々と受け継がれてきたものであれ、キリスト教的に神から現世で行うべきことを遂行するために与えられたものであれ、天寿を全うすることこそが正しい行いであることで一致しているからです。

キリスト教もイスラム教もイエスキリストまたはアッラーという唯一無二の神を信じ、死んだあとは天国の主の元に帰るか地獄に逝くかの二択であり、あの世に逝ってまた戻ってくる(逝くなら必ず帰るがあるはず)という仏教の輪廻転生という宗教観とは異なります。死んだあとの地獄逝きさえ回避できれば、この世で生きる上での死への不安が和らぎ、地獄逝きが判っていれば自殺はできないというのが、クリスチャン的見解です。

インドネシア人が無宗教の日本人に「死ぬとき不安じゃないの?」と聞くのは「現世で何をすれば地獄じゃなく天国に帰れるのかを知らないで過ごすなんてあり得ない」と言っているわけで、イスラム教もキリスト教も天国に帰るか地獄に逝くかの審査は似たようなものだが天国に行っても格差はあるとのことです。

「特に信じている宗教はない」とインドネシア人に言うと「天国に行くために現世で何をすべきか分らないじゃないか」とか「死ぬのは不安でしょ」とか言われることはあるが「じゃあ現世で強盗でも何でもやりたい放題だね」と言われたのは初めてだ。

キリスト教やイスラム教などの一神教では、神は人間を作った永遠で最高の超越した存在であり、人は神になれるはずも無く会うこともできないが、神は確かにいるということを感じとることはできます。

日本人にとって敬う対象である神様は、イスラム教徒やキリスト教徒のインドネシア人にとっては依存してもいい対象であり、この宗教観の違いは大きいと思います。

キリスト教では、神から何らかの役割を持たされてこの世に生を受けて誕生し死んだ後に主の元に帰るので現世では神に帰依する(頼みとして、その力にすがること)ことが普通です。人間は今ここにある命を手帳の記載どおりに全うしているということを意識することで、人間は神から何らかの教示を得た上で存在しているということを認識できるという意味で帰納的な立場にあると言えます。

日本人の感覚からするとうちの嫁さん(インドネシア人クリスチャン)にとっての神様は「依存してもいい対象」という感覚が理解しずらいのですが、信仰に基づき祈ることで気持ちが救われるのであればそれで十分だと考えます。

宗教によって異なる「死んだらどうなる」の考え方
宗教によって異なる「死んだらどうなる」の考え方 【天国への帰り方、地獄への逝き方】

インドネシア人が無宗教の日本人に「死ぬとき不安じゃないの?」と聞くのは「現世で何をすれば地獄じゃなく天国に帰れるのかを知らないで過ごすなんてあり得ない」と言っているわけで、イスラム教もキリスト教も天国に帰るか地獄に逝くかの審査は似たようなものだが天国に行っても格差はあるとのことです。

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イスラエルの民の歴史である旧約聖書の創世記

紀元前から存在したユダヤ教の旧約聖書は、イスラエルの民と民を裁き導く神との間に交わされた壮大なる物語の記録です。

創世記では、神は6日間で天地創造し土で作ったアダムに生命を与え、男一人ではかわいそうなので女のイヴを作りました。エデンの楽園の禁断の果実を蛇にそそのかされたイヴが食べた結果、恥じらいや猜疑心、怒り、嫉妬、悲しみなど様々な感情が生まれました。神は怒って蛇は這い回る呪われる存在とし、女性には産みの苦しみを与え、男には命を終えて土に返るまで、土を耕して食物を得る苦しみを与えました。アダムとイヴはエデンの東に追放され、カインとアベルとセトという子供を育てました。

神は地上の人間達があまりにも堕落し退廃的な生活を送っていることに見切りをつけ、大洪水で地上の人間どもを滅ぼしてしまうので、セトの子孫である神に選ばれし善人ノアに対して、妻と三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のオスとメス一組ずつを乗せて、生還できるための方舟の建設を命じました。40日間昼夜問わず続いた洪水の後で、ノアの方舟はトルコのアララト山の山頂に止まり生還しました。

ノアの子孫が預言者アブラハムで神への忠誠心として息子であるイサクを生贄にささげようとしたことが犠牲祭となりました。

今月末のイスラムの犠牲祭の趣旨として、昔アブラハムに生贄にされそうになった人はイシュマエルらしいが、以前読んだ「マンガ旧約聖書」では異母兄弟のイサクだったわけで、宗教によって結構重要なポイントが食い違っていた。

モーセはエジプトで迫害されていたイスラエル人を連れて脱出するも、エジプト軍に海に追い詰められたが海を割って渡りました。

ユダヤ教から500~600年後に派生してアラブの生活習慣が反映されたのがイスラム教であり、旧約聖書を自分の宗教に都合がいいように、新約聖書またはコーランとして書き換えたという意味でユダヤ人は新約聖書を認めていません。

イエス・キリストの誕生日の年を西暦0年として派生したのがキリスト教(カトリック)で、新約聖書ではイエスキリストの教えと生涯、弟子たちによる伝道活動などが記されています。

鯖(さば)の押し寿司とノアの方舟は同じポルトガル語のBATEIRA(バッテーラ)に由来する
イスラエルの民の歴史である旧約聖書の創世記【ノアの方舟】

弊社の社名に付くBAHTERAとの関連性を問われる鯖の押し寿司のバッテラは、ポルトガル語の小舟を意味するbateiraを語源とします。旧約聖書の創世記に記述されるノアの方舟はインドネシア語ではBahtera Nuhになり大きめの船のことをBAHTERAと呼びます。

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人に対する罪と神に対する罪の違い

イスラム教やキリスト教はユダヤ教から派生した宗教であり、現世での罪を神に対して贖罪するという考え方が根底にあり、人間は神に対する罪人として贖罪のために生き、贖罪を果たしたものだけが天国へ行きます。

インドネシア語で「罪」という言葉は、神に対する罪は「dosa」で人に対する罪は「kesalahan」とか「kriminal」とか区別されるのに、日本語で「罪」という言葉は刑事犯罪の罪にも神の教えに反する罪にも使われるのはおかしいと言われたことがあります。

仏教や神道で神に許しを請うという概念がないため、日本語の「罪」という言葉は、相手が人であるか神であるか区別がありません。

仏教

悟りの境地に達するという仏教観

キリスト教やイスラム教などの一神教と異なり、ヒンドゥ教や仏教は多神教で偶像崇拝を行う宗教なので、先祖や偉人などの霊を祭るために霊廟(れいびょう)を建立するのが一般的で、ヒンドゥ教の場合はバリ島の至るところで見られる先が尖ったCandi(チャンディ)、仏教の場合は丸みを帯びた円形の仏塔(ストゥーパ)になり、仏舎利塔(お釈迦様の遺骨が安置されたとされる)のように山頂などの高いとこに建立されます。

廻廊の浮彫図には仏教経典の物語、釈尊(しゃくそん 釈迦を敬っていう呼び名)ゴータマ・シッダールタが、この世を生きる上での病気や老いや死という苦しみに対する恐怖、煩悩をどうやって克服できるのかという疑問を解くために、苦行を重ねたあげく苦行では悟りは開けないということを悟り、最終的に菩提樹の下で世の中の仕組み(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)を理解することで悟りを開くまでの生涯が描かれています。

霊廟を訪れる人に対して仏の教えを説き、人が生きていくための真の意味を見出し、心清められ救われるようにする法施(ほうせ)を目的としており、廻廊を歩きながら上って行く間に、多くの仏像に手を合わせることで心を清める観仏供養(かんぶつくよう)になります。

2010年の大噴火でムラピ火山の番人(Juru kunci Merapi)として噴火のタイミングを事前に察知し、周辺住民に避難勧告を出すという重要な任務担っていたマリジャン氏(Mmbah Marijan:Mbahはジャワ人のイスラム教徒のおじいさんへの敬称)が犠牲者となったことで有名です。

悟りの境地に達するという仏教観
悟りの境地に達するという仏教観【現世で努力と実践を繰り返すことによって涅槃寂静の境地に達する】

仏教的価値観では、現世で努力と実践を繰り返すことによって涅槃寂静の境地に達し、煩悩から解脱し悩みがなくなる状態こそが悟りの境地と言えるのですが、これは簡単なことではないので、一般の人々にとっては死ぬ前に「いい人生だった」と感じられることが最終目標となるのだと考えます。

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煩悩をコントロールする方法

悟りの境地とは、罪の根源である三業「体(身)と心(意)と言葉(口)」の三つを鍛えることで、世の中の仕組みがすべて理解できるようになることで一切の悩みがなくなった状態(解脱)であり、仏教で神に該当する仏様(お釈迦様)とはキリスト教のようにすがる対象ではなくそうなろうと追求する対象です。

「悟りの境地」とは「解脱したときにはじめて理解できる世の中の仕組み」です。

  1. 世の中のものはすべて変化する(諸行無常 しょぎょうむじょう)⇒祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
  2. 世の中のものはすべて関係しあっている(諸法無我 しょほうむが)
  3. 悟りの世界は穏やかである(涅槃寂静 ねはんじゃくじょう)

平家物語は琵琶法師によって弾き語られた作者不明の物語ですが、お釈迦様が説法を行ったインドの祇園精舎の鐘の音から絶えず変化する世の中の無常を説いた仏教観を説いています。

世俗で修行を積むことで、世の中は諸行無常・諸法無我であるということが理解できれば、涅槃寂静の悟り境地に達したあとに次にやるべきことは、自分一人だけ悩みがなくなって満足するのではなく、他人も苦しみから救ってあげることです。

人間は犬や猫とは違って、生きている意味を考える生き物です。犬や猫は喜怒哀楽はあるけど自分が何のために生きているのかといったことは考えない。そこで人間の中には煩悩が生まれるが、これは仕方のないことです。感情がある以上煩悩が生まれるので自己嫌悪に陥る必要はありません。

嫌われるのを恐れる時点で自分が好かれていると思っている傲慢な証拠なので、「嫌われてもいいや」「馬鹿にされてもいいや」「見下されてもいいや」と思えるようになるとどんどん楽になってくる。自分がどう思われているかっていうことを考える時間を、丹念に減らしていくことが大事。

映画「椿三十郎」の中で、三十郎が誘拐された上代について「自分が馬鹿だと思われていることを気にしないだけでも大物だ」と評する場面がありますが、これが一つの悟りの境地に達した人物の例です。

お坊さんは人の心を救うのが仕事で解決策を考える人ではありません。

昔お坊さんに「どうして自分を律することができないんでしょうか?」と聞いたことあります。「それが人間です、そういうことで悩むのが犬猫との違いです。私だって酒ばっかり飲んで堕落しています」と言われて心が救われましたが、この人は心を救うのが仕事で解決策を考える人ではないと気づきました。
煩悩をコントロールする方法
煩悩をコントロールする方法 【感情的になった時点で負けが決定】

他人の幸福を羨む気持ちを抑えるには、他人の幸福や不幸は自分に何らプラスマイナスの影響を及ぼさないと理性的に考えることであり、相手の言葉に感情的にカッとならないためには別に嫌われてもいいや、馬鹿にされてもいいやと気楽に考えることです。

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供養で感謝し断捨離で執着を捨てること

供養するという場合、死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ることを指しますが、浄土真宗での供養とは来世に対して行うのではなく、残されたこの世に生きる人を敬い、尊い命を授かったことに感謝するという、現世に対して行うものです。

ヒンドゥー教の修行であるヨガの「断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)」の頭文字を取ったもので、これが派生して仏教の修行である禅の中に「拘り(こだわり)を捨てる、執着を捨てる」という教えがあります。

供養と断捨離でモノや故人そのものというよりも心の中にある執着であり、執着から解放され現世の大切なものと向き合うということは、これすなわち罪の根源である三業である身(体)と意(心)と口(言葉)を鍛える修行の一つです。

地球誕生から46億年前、そして生命体誕生から38億年、今ここにある自分の命は突然湧いて出てきたものではなく、脈々と受け継がれてきたものであるので歴史上非常に貴重で尊いものであるはずです。

「人の命は地球より重い」とは1977年日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件で、犯行グループが高額の身代金と日本で服役中の過激派や爆弾魔などを解放するよう要求した時に、時の福田赳夫首相が言った言葉であり、すべてのものを生きとし生けるものと拝むことができる日常こそ、一人の生命の重さを実感して生きることです。

昨今の世知辛い世の中で生きていくなかで、そんな生命の尊さなどを考える余裕はなく、生きるのがつらい、いっそこの世から消えてしまいたい、という感情が湧き上がることもあるのが人間です。

祥月命日(年に一度の命日のこと。月命日は年に11回)といえば、死者を弔い供養する日という後ろ向きのイメージがありますが、現世で生きている残された人間が、自分自身の命の尊さについて考え、他人の命を敬う日であると考えることで、来世に逝ってしまった人の死を無駄にせずに、その人の現世での振る舞いや言葉をしみじみと思い出し、自分もこの世に生まれて良かったと考え、残りの人生をいかに生きていくかを考え直すという、前向きで建設的な意味が出てきます。

供養とは現世に生きる人間に対して行うもの
供養で感謝し断捨離で執着を捨てること【現世に生まれてきて良かったと考えられること】

日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件で、犯行グループが高額の身代金と日本で服役中の過激派の解放を要求した時に、福田赳夫首相が言った「人の命は地球より重い」という言葉があります。すべてのものを生きとし生けるものと拝むことができる日常こそ、一人の生命の重さを実感して生きることです。

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イスラム教

イスラム教と仏教の法要の違い

仏教では故人は初七日に三途の川のほとりに到着、7日ごとに35日目まで閻魔大王の裁きを受け、四十九日に成仏して極楽浄土に行けるかどうかが決まり遺族の忌明けとされ、百日目に卒哭忌(そつこくき)として悲しみから卒業します。

イスラム教徒は死後24時間以内に土葬され、法要は三日目、七日目、四十日目、百日目に行われる。イスラム教は仏教と違って輪廻転生はなく、一回限りの命を全うし、死んだ後はアッラ-の神の審判の日に復活し、来世である天国か地獄に行きます。

イスラム教と仏教の法要の違い
イスラム教と仏教の法要の違い【ユドヨノ前大統領夫人の初七日】

イスラム教と仏教の法要の仕方は似て非なるもので、仏教で故人が出会う三途の川や閻魔大王はイスラム教にはなく、一回限りの命を全うしアッラ-の神の審判の日に復活し天国か地獄に行くそうです。

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イスラム教の犠牲祭の背景とキリスト教的解釈の違い

旧約聖書に出てくるアブラハムが神への忠誠心として息子であるイサクを生贄にささげたことを記念する日だが、本来の意味は家族や恵まれない人たちと食べ物を分かち合うことに意味があります。

イスラムのラマダン(Ramadan 断食月 )はイスラム暦の9月にあたる1ヶ月間で、夜明け前のお祈りの時間(ファジュル)から日没時のお祈り(マグリブ)まで断食することで空腹や自己犠牲を経験し飢えた人への共感を学ぶというのが趣旨で、イスラム暦の10月1日にあたる断食月明け大祭、インドネシアではIdul fitri、レバラン(Lebaran)は、2億6千万人の人口のうち約87%の2億2千万人がイスラム教徒であるインドネシアで最大の祭日であり、ジャカルタの都市圏人口3,200万人のうち2,000万人が帰省(Mudik)します。

イスラム教の犠牲祭の背景とキリスト教的解釈の違い【同じくユダヤ教から派生した宗教】
イスラム教の犠牲祭の背景とキリスト教的解釈の違い【同じくユダヤ教から派生した宗教】

犠牲祭はアブラハムがアラーの神への信仰を示すために長男のイシュマエルを生贄にしようとしたことを称える記念日ですが、カトリックでは犠牲にされようとしたのは次男のイサクであり、同じユダヤ教から派生したカトリックとイスラム教で解釈が異なります。

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ジャワの神秘信仰と日本の八百万の神

日本の神道は、山や川など自然界のすべてに宿っている八百万(やおよろず)の神から霊的スピリットを感じ取り、パワーを吸収しようとする土着信仰であり、人間は死ぬと死後の世界である黄泉の国(よみのくに)に行き、八百万の神の一員になる。ジャワのアニミズム(自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るという信仰)であるkejawenも同じような考え方です。

仏教は神の存在すらなく、死んだらみな仏になり(成仏)、生きている間にも罪の根源である三業「体(身)と心(意)と言葉(口)」の三つを鍛えることで、世の中の仕組み(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)を理解できたとき、煩悩から解脱することで悟りの境地に達すれば即身成仏(そくしんじょうぶつ)になります。

宗教的に「幸せに生きる」という意味は、煩悩から解放され悩みがなくなる状態(解脱)であり、そのために神にすがるのではなく、現世で努力と実践が必要だとされるのが、仏教の他の宗教との大きな違いであり、お寺で和尚さんが仏さまの教えを説くのが説法です。

人間を構成する肉体と精神と心と魂

ユダヤ教の旧約聖書の創世記で、神が6日間の天地創造の7日目に休息を取ったことから、日曜(土曜日没から土曜日没まで)から始まって7日目の土曜日(金曜日没から土曜日没まで)が何も行ってはならない安息日と定められました。

旧約聖書の1日は日没で区切るので、土曜日というのは金曜日の日没から土曜日の日没までの間を言う。イスラムの日課としての礼拝は1日5回、ファジュル(日の出)・ズフル(正午)・アスル(午後)・マグリブ(日没後)・イシャ(晩)だが、金曜のズフルは集合礼拝となる。礼拝の前には手・口・・顔・手首から肘・足首を3回洗います。

キリスト教的価値観では、人間はBody(肉体)とSoul(精神)とSpirit(魂)の3つに要素から構成されていますが、心の知的な働きをmind(精神)と定義すれば、4つの要素から構成されると言えます。

  • 英語:Human being = Body + Mind + Soul + Spirit
  • インドネシア語:Manusia = Tubuh + Jiwa + Hati + Roh
  • 日本語:人間=肉体+精神+心+魂

インドネシア語のtubuhは目に見える肉体そのものであり、jiwaはemosi(感情)、kehendak(意思)、pikiran(思考)の3つから構成され、人間だけでなく犬や猫などの動物もjiwa(生命)を持っています。

しかしroh(魂)を持つのは人間だけであり、神が人間を作った永遠で最高の超越した存在であり、人は神になれるはずも無く会うこともできないが、神は確かに存在することを感じとることはできるのはそのためらしいです。

肉体と精神と心と魂
人間を構成する肉体と精神と心と魂【無宗教の日本人は霊とか魂という言葉に弱い】

日本人は宗教を持たないために霊や魂について真剣に考える機会がなくスピリチュアルワードに弱いのだと思います。キリスト教的価値観では人間は肉体と精神と魂の3つで構成され、人間だけが魂を持つが故に魂を通して神の存在を感じることができます。

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ストレッチで柔軟性が高まることによる心の平安

オバマ元大統領から「外野からホームまでレーザービームのように一直線のボールが投げられる秘密は何なんだい?」と聞かれたときのイチロー選手の回答「柔軟な筋肉です。大きな筋肉は必要ありません」。

ストレッチは直接的に精神の安定や神への帰依を目指すものではないが、血流の循環が活性化することにより、肉体的にも精神的にも心の安定を得られる効果がある。

ヨガはアサナ(身体能力を極限まで生かすポーズ)と呼吸法によるヒンドゥ教の修行⇒神に近づく⇒宗教から切り離されることによって、瞑想により心の平安を求めたり、美容と健康の手段となったり、普遍の学問的原理である哲学を見出す手段に変化。

  • 禅は仏教の修行で、三業「体(身)と心(意)と言葉(口)」の三つを鍛えることで、世の中の仕組み(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)をすべて理解できた時に悟りの境地に達し解脱できる。
  • 瞑想は心の平安を追求する手段。
  • 哲学は普遍の原理を見出す学問。
ストレッチで柔軟性が高まることによる心の平安
ストレッチで柔軟性が高まることによる心の平安【宗教の枠を抜けて世界中に普及したヨガとの目的の違い】

ストレッチは直接的に精神の安定や神への帰依を目指すものではありませんが、血流の循環が活性化することにより、肉体的にも精神的にも心の安定を得られる効果があります。

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