インドネシアの歴史

インドネシアの歴史

「インドネシアの歴史」と聞いて思い浮かぶのは仏教王朝時代のボロブドゥール遺跡やヒンドゥ王朝時代のプランバナン寺院という歴史的建造物、オランダによるアジア貿易拡大を目的としたオランダ東インド会社の進出、「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」というじゃがたら文で有名なじゃがたらお春、第二次世界大戦時の南方作戦による大日本帝国の進駐、日本の敗戦後に350年近い植民地支配からの解放を勝ち取るための独立戦争、初代大統領スカルノからスハルト政権への移行とそれ以降の民主化という政治史などです。

自分の頭の中でインドネシアの歴史は「中世から近代までの王朝の歴史(5世紀~15世紀)」「植民地支配と独立までの歴史(1602年~1945年)」「歴代大統領政治史」という3つの大きな時系列に区切られており、そこから派生して世界遺産に登録されたボロブドゥール遺跡やジャカルタ北部コタ地区のファタヒラ広場周辺のバタビア調の建造物、歴代大統領誕生の過程などのマインドマップが広がっています。

5世紀頃に中部ジャワを中心にインドの文化・宗教・思想に影響された仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの叙事詩がジャワの文化として浸透していき、現在までワヤン(影絵芝居)の演目として引き継がれています。

スペインからの独立戦争である80年戦争の真っ最中の1602年にオランダは、ヨーロッパへの香辛料輸出拠点としてインドネシアに東インド会社を設立し、国内の各王朝との条約締結や交戦を繰り返しながら植民地支配地域を拡大していき、行政の中心地をバタビアと命名したものが今の首都ジャカルタに至っています。

1942年に日本がインドネシアに侵攻し1945年に敗戦した直後、初代スカルノ大統領が独立戦争を経てインドネシアの建国イデオロギーを確立し、「開発の父」と称されたスハルト大統領が工業化による経済発展を推進し、1998年のスハルト政権崩壊後に引き継がれた各政権で憲法改正、法律の制定・改正が繰り返され、民主化が着実に浸透していき現在に至ります。

例えば中部ジャワのボロブドゥール遺跡を見学しても、それがいつ頃の時代に誰によってどんな目的で建造されたのかという基本情報がなければ、単に「すごいなあ」「大きいなあ」という感想で終わってしまいますし、また単に壮大な外観や趣のある浮彫図についての感想を伝えるよりも、建設された当時の歴史的背景から説明したほうが間違いなく印象は良いはずです。

当ブログでは僕と同じようにインドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。

中世から近代までの王朝の歴史

インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡

インドネシアでは東西5,000km(アメリカ西海岸から東海岸までの距離)に連なる18,000個以上の島々のあちこちに小王国が建国される時、必ず何らかの宗教が土台となって国家運営に利用されてきた経緯があり、おおまかには15世紀までがヒンドゥ教と仏教中心の王国、15世紀以降に少しずつイスラム化がインドネシア全土に進行していきました。

インドネシアが誇る2つの世界遺産であるヒンドゥーのチャンディ(寺院)であるプランバナン遺跡(Candi Prambanan)と仏教のストゥーパ(仏塔)であるボロブドゥール遺跡(Candi Borobudur)の距離はわずか30kmしか離れていない事実からも、中部ジャワの王国が宗教を政治に利用しながら、衰退の過程では別の宗教に取り込まれるという歴史的経緯が見て取れます。

  • 8世紀に中部ジャワにシャイレーンドラ朝が建国され、仏教霊廟であるボロブドゥールを建立。
  • 10世紀に中部ジャワにマタラム王朝が建国され、ヒンドゥ霊廟であるプランバナン寺院を建立。
  • 15世紀以降にマタラム王朝がイスラム化。
  • 18世紀にイスラム教のマタラム王朝がジョクジャカルタのSultanとスラカルタ(ソロ)のSusuhunanに分裂。

キリスト教やイスラム教などの一神教と異なり、ヒンドゥ教や仏教は多神教で偶像崇拝を行う宗教なので、先祖や偉人などの霊を祭るために霊廟(れいびょう)を建立するのが一般的で、ヒンドゥ教の場合はバリ島の至るところで見られる先が尖ったCandi(チャンディ)、仏教の場合は丸みを帯びた円形の仏塔(ストゥーパ)になり、仏舎利塔(お釈迦様の遺骨が安置されたとされる)のように山頂などの高いとこに建立されます。

日本の神道(しんとう)でも、八百万(やおよろず)の神という数多くの神々の存在を信仰し、山の奥の石像や神社に氏神様(うじがみ)として静かに祭ってあるように、多神教は現世にて祖先に感謝し、干ばつに対して雨乞いをし、稲作の豊作を祈願する農耕文化から生まれた宗教であると言えます。

ボロブドゥール遺跡は、最頂部の釣鐘上のストゥーパ(仏塔)を囲むように、三層から構成される円壇にもストゥーパが配置され、その下の5層の基壇の廻廊の中心側の主壁(内側)と外側の欄楯(らんじゅん)には浮彫図が貼りつけてあります。

浮彫図には仏教経典の物語の場面が描かれており、霊廟を訪れる人に対して仏の教えを説き、人が生きていくための真の意味を見出し、心清められ救われるようにする法施(ほうせ)を目的としています。

仏教経典の物語では、釈尊(しゃくそん 釈迦を敬っていう呼び名)こと、釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタが、この世を生きる上での病気や老いや死という苦しみをどうやって克服できるのかという疑問を解くために、苦行を重ねたあげく苦行では悟りは開けないということを悟り、最終的に菩提樹の下で悟りを開くまでの生涯が描かれています。

インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡 【歴史上世界最大規模の仏教寺院群】

インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡は、カンボジアのアンコールワットと並ぶ歴史上世界最大規模の仏教寺院群で、中部ジャワのジョクジャカルタの北西40kmほどの山間の街Magelangに存在します。

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歴史学の研究テーマである劇場国家という概念

アメリカの政治人類学者のクリフォード・ギアツの著作「ヌガラ-19世紀バリの劇場国家」 の中で展開される「劇場国家」という国家概念は、バリ島に栄えたいくつかの小王国(ヌガラ)では、祭儀の日がハレの日でそれ以外の日常はケの日であるという考え方の元に、祭儀こそが国を成立させる条件であり、国王が主催主、僧侶が監督、庶民が脇役、舞台装置係、観客を分担する劇場のように機能する上下階層のない国家だったというものです。

インドネシアはよく「劇場型国家」と言われますが、国家体制を維持していくためには、新聞やテレビなどのマスコミを通じて、大衆に強烈に支持を訴えるポピュリズム的手法をとります。

ユドヨノ大統領の「テロの撲滅」とか現職ジョコウィさんの「汚職根絶」などは、誰が聞いても分かりやすく賛同を得られやすいスローガンですし、日本であれば郵政民営化に対する抵抗勢力、築地市場の豊洲移転の再検証に対する反対勢力を悪役に見立てて、自分は正義の味方として戦いを挑むといった構図を作ることで大衆の支持を集めます。

また最近では犯罪事件報道すら劇場化する傾向にあり、Grand IndonesiaのOlivierカフェの名前をインドネシア中に知らしめたコーヒー毒殺事件など、実行犯が主役、警察が脇役、大衆が観客という「劇場型犯罪」という構図で報道され、これは「他人の不幸を喜ぶ」という人間の本性を利用したマスコミによるコマーシャリズム手法です。

歴史学の研究テーマである劇場国家という概念 【インドネシアのロンボク島で考えた劇場型という言葉】

歴史学上ではかつてバリ島で栄えた小王国(ヌガラ)は「劇場国家」という概念で研究テーマとなっていますが、劇場型犯罪や劇場型政治などという言葉があるように、現代社会のあらゆる事象は、登場人物に対して主催者、監督、主役、脇役、観客などの役割を持たせることで、客観的な視点で論じやすくなります。

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連想記憶によるインドネシアの歴史の覚え方

インドネシアの歴史のはじまりとしては、シャイレーンドラ王朝(8世紀~9世紀)の仏教遺跡であるボロブドゥール(Borobudur)とマタラム王朝(8世紀~9世紀)のヒンドゥ教遺跡であるプランバナン(Prambanan)、時を同じくしてスマトラ島のパレンバンを中心とした仏教王国スリウィジャヤ王朝が栄えていました。

その後マタラム王朝はクディリ王朝(929年~1222年)となりダルマワンサ(Dharmawangsa)王を輩出し、その後ウィジャヤが建国したのがマジャパヒト王朝(1293年~1527年)で、マジャパヒト王朝の最盛期を築いた宰相ガジャマダ(Gaja Madah)とハヤム・ウルック(Hayam Wuruk)王です。

16世紀にマジャパヒト王朝の後に勢力を拡大したのがスノパティによって建国された新マタラム王朝(古代ヒンドゥ教のマタラム王朝とは別物)で、この時代からヒンドゥ教よりもイスラム教勢力が強くなります。

この新マタラム王朝の王位継承問題により、1755年にジョクジャカルタ家のスルタン(Sultan)とスラカルタ家のススフナンに分裂しました。

時代を同じくして16~17世紀には北スマトラでアチェ王国が隆盛を誇り、1607年にスルタンに就いたのがイスカンダル・ムダ(Iskandar Muda)であり、古代ギリシアのマケドニア王国の王様アレクサンダー(アレクサンドロス)のイスラム圏での呼称です。

1603年にオランダが東インド会社を設立し、オランダ領東インドというオランダ直轄の植民地となると、以降インドネシア各地で反乱が起き、アチェ王国ではパンリマ・ポレム(Panglima Polem)9世率いるアチェ軍がトゥク・ウマール(Teuku Umar)を中心としてオランダ軍とゲリラ戦を戦ったのが、30年に渡るアチェ戦争(1873年~1904年)です。

同じく北スマトラのバタック地方では、シ・シンガ・マンガラジャ(Sisingamangaraja)12世は、1878年からオランダ軍とゲリラ戦を繰り広げました。

西スマトラのミナンカバウではイマム・ボンジョル(Imam Bonjol)指揮する反オランダ植民地支配勢力とオランダ軍との間でパドリ戦争(1821年-1837年)が起きました。

同じころ当時最大の国内王朝だった新マタラム王朝の領土は削減されていき、これに反抗したジョクジャカルタ家のディポヌゴロ王子(Pangeran Diponegoro)が指揮したジャワ戦争(1825年~1830年)は民衆の支持を受けて、ジャワ島全土に拡大しました。

タムリン(Thamrin)は民族主義思想家の中心、スディルマン(Jendral Sudirman)は大日本帝国陸軍が創設した郷土義勇軍(PETA)の初代司令官として独立戦争を戦った国軍の父と称される人です。

1965年9月30日未明から10月1日にかけて、共産党(PKI)に近いスカルノ大統領新鋭部隊配下の決起部隊が自らを革命評議会と名乗り、大統領排除計画を立てたという疑いで6人の国軍将校を拉致して殺害し、Lubang Buayaに遺棄する事件が発生しましたが、このとき犠牲になった一人がアフマッド・ヤニ(Ahmad Yani)司令官です。

植民地支配と独立までの歴史

オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区

ジャカルタはビジネス都市であって観光地ではないと言われますが、ジャカルタの魅力は地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業の中心地であり、バタビア(Batavia)時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。

  • 14世紀:ジャカルタ周辺はスンダクラパと呼ばれていた。
  • 16世紀にはジャヤカルタ(Jayakarta)と呼ばれるようになる。
  • 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなり首都バタビアと呼ばれる。
  • 1943年2月:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し日本の軍政下に入る。
  • 1945年8月12日:スカルノ・ハッタは大日本帝国陸軍の南方軍の寺内総司令官からいつでも独立してよしの言質を得る。
  • 1945年8月15日:天皇陛下による玉音(ぎょくおん)放送で終戦。
  • 1945年8月17日:インドネシアが独立を宣言(独立記念日)
  • 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争
  • 1949年:名実共に独立。
オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区
オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区【ジャカルタの発展の歴史を語るには外せない観光地】

ジャカルタの観光地としての魅力は、地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業の中心地で、ファタヒラ広場付近にはバタビア時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。

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じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵

1603年に徳川家康が征夷大将軍に就き江戸幕府が創設され、3代将軍である徳川家光の時代に徹底された鎖国令のために、イタリア人ハーフのキリスト教徒であるお春は、バタビアに追放されました。

「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」の悲しいイメージがありますが、実際にはバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して三男四女を儲け、富を築いて大勢の使用人を使っていた結構な勝ち組だったようです。

1602年の東インド会社の進出を契機にオランダの植民地支配が300年以上続き、当時のオランダ領東インドには、19世紀の後半から20世紀前半までに多くの日本人経営の商店、トコ・ジャパン(日本人商店)がありました。

「じゃがたら」というのは16世紀のJayakartaがなまってJacatraとして広まったもので、今の呼称Jakartaと綴られるようになったのは1945年のインドネシア独立後のことで、歴史的に見るとごく最近の話になるのですが、時代とともに変遷してきた昔の名前は、現在でも愛着をもって地名や店名として使われています。

  • 14世紀はSunda Kelapa
    ⇒今はAncol付近の港名
  • 16世紀にはJayakarta
    ⇒リーズナブルなJayakarta Hotelの名称として残っている。
    ⇒この時代のJayakartaがなまってJacatra(ジャカトラ)という言葉が広まって、インドネシア産のモノがじゃがとら芋、じゃがとら絹と呼ばれました。
  • 17世紀から20世紀前半のオランダ統治時代はBatavia
    ⇒ジャカルタの名所Cafe Batavia
  • 1942年に旧日本軍がDjakartaに改名
    ⇒Djakarta Theater XXIという系列映画館が有名

当時の行商人や売薬商、女衒(ぜげん)に騙され売り飛ばされて来た「からゆきさん」などが、バタビア周辺だけではなくインドネシアの各地に根を下ろして生活しており、中央ジャカルタのプタンブラン公営墓地にある日本人納骨堂には、バタビアで商店を営んでいた日本人商人以外にも、多くの「からゆきさん」の遺骨が納められていると言われています。

ジャカルタで会える昔の日本人の足跡
ジャカルタで会える昔の日本人の足跡【じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵】

じゃがたらお春はバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して富を築いた勝ち組だったようです。女衒に騙され売り飛ばされて来たからゆきさんはインドネシアの各地に根を下ろして生活していました。敗戦後にインドネシアに残った日本人兵士がインドネシア人と共にオランダ軍・イギリス軍と戦いました。

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インドネシアはどこから独立したのか?

インドネシアの独立記念日である1945年8月17日は、時系列的にはたまたま日本軍政下にあっただけ(正確には日本の敗戦から2日後)で、実質的にはオランダによる350年間の植民地支配と3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利であり、インドネシア人自らが勝ち得た独立と言えます。

  • 日本書紀の記述にある初代天皇である神武天皇が即位した紀元前660年を元年として紀年した皇紀がインドネシアの独立宣言書の日付に皇紀2605年を意味する「05」(2605 - 660 = 1945)として採用されている
  • インドネシアにとっての独立とは、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利。
インドネシアはどこから独立したのか
インドネシアはどこから独立したのか?【歴史上日本からの独立か植民地主義からの独立か】

インドネシアの独立は、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配という屈辱の歴史の中で形成された民族主義の勝利であり、インドネシア人の心の奥底には自力で独立を勝ち取ったプライドがあります。

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ムラユ語からインドネシア語への発展の背景

1824年の英蘭条約でマラッカ海峡を境にイギリス領とオランダ領に分断された後に、同じムラユ語発祥でもマラッカ海峡で分断されてインドネシア側はオランダ語とかジャワ語とかスンダ語の影響を受けて、マレーシア側は英語とかその他ローカル言語の影響を受けて、それぞれ200年ほど熟成された結果が、今のインドネシア語とマレーシア語の違いです。

インドネシアという国名、概念が公式に使われるのは1945年に独立してからで、それ以前はオランダ領東インド、今のインド付近は前方インド、インドネシア付近は後方インドと呼ばれており、カリブ海の西インド諸島に対比するように東インド諸島と呼ばれていたようです。

1602年にオランダが東インド会社の拠点があったジャワ島西部を勝手に首都バタビアと決めてからの約350年間が、いわゆるオランダ植民地支配の期間に該当するわけですが、300とも言われる民族が10,000以上の島々に住んでいる状況で、一体どれくらいの人々が「今、自分達はオランダに支配されている」と認識していたのかは興味深いところです。

その後インドネシアは苦難の歴史を辿り1945年8月17日に独立を迎えるわけですが、憲法の中で表記されるRepublic Of Indonesiaという正式名のとおり共和制ですから、君主を持たない政治体制で国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を国民が持つという、国民主権の民主主義国家を目指したわけです。

インドネシア憲法の前文となるパンチャシラの中で「唯一神への信仰(国民は必ず自分の信じる宗教を常に信仰すること)」としてイスラム教を国教としなかったのと同様に、インドネシア語が少数派のムラユ語を母体とされたことは、民主主義を志向した国家統一のために大きな貢献となったと考えられます。

ムラユ語(Bahasa Melayu)はマレー語とも言われ、マレー半島からマラッカ海峡をはさんでスマトラ島などに住むムラユ人が話す言語で、人種や民族間での上下関係による敬語等の表現がなく、意思疎通に便利な言葉であったものと想像されます。

1945年憲法の中でムラユ語を母体とした言語をインドネシア語とすると決定したことは、ジャワ人中心の国ではなく全く新しい国を造るということであり、その決定過程においてスカルノ大統領の母親がバリ人だったこと、副大統領のハッタが西スマトラのブキティンギ(Bukittingi)出身のミナンカバウ族であったことが、新しい国家で「多様性の中の統一」を実現するのに最適な言語がどれかを、客観的に評価する上で影響したものと考えます。

ムラユ語からインドネシア語への発展の背景【1945年憲法で正式国語に決定】

「唯一神への信仰(国民は必ず自分の信じる宗教を常に信仰すること)」としてイスラム教を国教としなかったのと同様に、インドネシア語が少数派のムラユ語を母体とされたことは、民主主義を志向した国家統一のために大きな貢献となったと考えられます。

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インドネシアのオランダ植民地支配の期間

インドネシアの歴史が語られるとき「オランダによる350年の植民地支配」という言葉を頻繁に目にしますが、この数字は1596年にオランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie=VOC)の商船が初めてバンテンに到着してから1945年の独立までの349年を指すものと思われますが、そもそもVOCが来たことをもって植民地支配の始まりと考えて良いのかという問題があります。

VOCは世界初の株式会社と言われ、商業活動以外に条約の締結権、軍隊の交戦権、植民地経営権などの特権を与えられた勅許会社で、帝国主義の先駆けを果たしたという意味において、東西に連なる島々に王国が存在した状態で物理的な資源の搾取等は始まっていなかったとはいえ、オランダ領東インドとして植民地支配される最初の一歩だったと言えるかと思います。

インドネシアのオランダ植民地支配の期間【コロナ禍下での2回目の独立記念日】

オランダによる植民地支配350年とは、東インド会社の船がBantenに到着した1596年から1945年までの349年間を指し、実際には地域ごとに王国が降伏させられた時期が異なります。スカルノ大統領がナショナリズムを喚起し国家の連帯を築くためのスローガンとして、この350年という期間を用いたのですが、実際に350年という数字は多くの血と汗と涙を犠牲とした植民地支配への抵抗の歴史です。

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歴代大統領政治史

インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」

深田祐介著「ガルーダ商人」では、サリナデパートがインドネシア初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられた、インドネシア最初の大型デパートチェーンである史実が記載されており、その建設プロジェクトの受注を巡って、日本の戦後賠償引当の借款を資金として、複数の日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しく利権争いを繰り広げます。

日系商社はまず大統領からプロジェクト受注の指名を受けた後、日本政府に対して戦後賠償の中からサリナプロジェクトの資金を引き当てるよう働きかけ、賠償を担保とした円借款を銀行との間で取りまとめ、建設会社を通してプロジェクトの管理の責任を持つという役割を担います。

ストーリーを通して、日系商社が大統領からプロジェクトの指名を得るために日本政府の大物に根回しをし、女性に弱いスカルノ大統領の歓心を得るために日本人女性を「人身御供」として利用しますが、その中の一人であるディア(旧姓根本七保子であるデヴィ夫人がモデル)が、利権争いに翻弄されながらも大統領と日系商社との駆け引きを通じて、したたかに生き抜いていく様が描かれています。

インドネシアの現代政治史やバラエティ番組で活躍中のデヴィ夫人の生き様、商社が戦後賠償を原資として利益を得るカラクリなど、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人にとっては、現在の日本とインドネシアの関係の裏にある背景を理解する上で、非常に勉強になる名著だと思います。

サリナデパートとマクドナルド
インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」【マクドナルド1号店閉店とサリナデパートの歴史的背景】

インドネシアのマクドナルド1号店のあるサリナデパートは初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられたインドネシア最初の大型デパートチェーンであり、インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」の中には、日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しく利権争いを繰り広げた歴史的史実が記載されています。

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インドネシア政治史上パワーバランスが変わった9月30日事件

1997年当時はまだスハルト政権末期、共産主義を賛美しようものなら日本の公安調査庁に当たる国家情報調整庁(Badan Koordinasi Intelijen Negara)、通称インテル(Intel)に宗教侮辱罪(共産主義者は無神論者と見なされた)か国家シンボル侮辱罪(建国五原則のうち「唯一神への信仰」に反する)で逮捕されてもおかしくない時代ですが、PKIは1963年末の段階で自称250万人の党員を抱えるソ連共産党、中国共産党に次ぐ世界で三番目に大きな共産党であったことから考えても、彼女のように隠れキリシタン的に水面下で共産主義を信奉するインドネシア人も相当数いたものと考えられます。

1965年9月30日未明から10月1日にかけて、スカルノ大統領新鋭部隊配下の決起部隊が自らを革命評議会と名乗って、大統領を排除する計画を立てていたと疑われる6人の国軍将校を拉致して殺害し、Lubang Buayaに遺棄する事件が発生し、これに対して戦略機動予備軍司令官スハルト少将がいち早く鎮圧にあたり事態を掌握し、事件は国軍ではなくPKIによるクーデターであると解釈した上で、その後の民間人を扇動した「赤狩り」が行なわれ、共産党勢力の一掃作戦が展開されることになります。

この事件がPKI主導によるものであるというインドネシア政府の公式見解を形にしたものが、1973年に公開された「パンチャシラ・サクティ」記念碑や1992年に開館した「共産党の裏切り」博物館ですが、本当は単なる陸軍内の内紛だったという説もあれば、スカルノ大統領を失脚させるためのスハルト少将による陰謀説、インドネシアの共産化を恐れた欧米諸国による陰謀説などがあります。

インドネシアの独立を達成した後、スカルノ大統領は異なる文化、民族、言語、宗教に属する人々をインドネシアという国家の一員であるという意識を根付かせ一つにまとめていくために、欧米諸国という外敵を作り、ソ連や中国など共産主義国家と繋がりを持つPKIとの関係を深めていったものの、「9月30日事件」で国内の反共勢力とのパワーバランスが崩れ、「3月11日政変」後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。

反共産主義の象徴であるパンチャシラ・サクティ記念碑【現代政治史上パワーバランスが変わった9月30日事件】
インドネシア政治史上パワーバランスが変わった9月30日事件【反共産主義の象徴であるパンチャシラ・サクティ記念碑】

インドネシア共産党によるクーデーター未遂である9月30日事件でスカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。

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インドネシアの歴代大統領から見る現代政治史

初代大統領スカルノが建国五原則であるパンチャシラを元にインドネシアの国家としての礎を築き、スハルト大統領が西側諸国との良好な関係を元に経済発展を推し進め、ハビビ大統領による長期独裁政治が出来ない法整備が民主化の足掛かりとなり、メガワティ大統領の時代に憲法改正により三権分立が確立され、インドネシア初の大統領直接選挙で選ばれたSBY(ユドヨノ)大統領がテロの撲滅と民主主義経済の仕組み作りを行い、ジョコウィ大統領がインフラ整備と産業の高度化を推し進めています。

  1. 1998年5月にスハルト氏退陣に伴いハビビ氏が副大統領から昇格し、ゴルカル党による権力集中独裁国家から近代民主主義国家への移行のための法改正を行い、2004の大統領直接選挙に繋がる。
  2. 1999年の政党活動が自由化され政党が乱立する状況で行われた総選挙の結果、第1党PDI-P、第2党ゴルカル党、第3党PKBという状況での、MPR内での大統領指名選挙でグス・ドゥル氏が勝利、副大統領にメガワティ氏就任。
  3. 2001年グス・ドゥル(ワヒド)大統領弾劾に伴いメガワティ氏が副大統領から昇格したあと、2004年の最初の国民による大統領直接選挙でSBY氏が現職メガワティ氏を破り、2009年にも再選。
  4. 2014年大統領選挙ではソロ市長、ジャカルタ特別州知事を経たジョコウィ氏がプラボウォ氏を僅差で勝利。2019年に再選。
2019年の総選挙を前にインドネシア政治史のおさらい
インドネシアの歴代大統領から見る現代政治史【2019年の総選挙を前に政治史のおさらい】

初代大統領スカルノは1965年の9月30日事件と3月11日事変後にスハルトに政権を委譲。1998年の暴動による社会混乱を機に副大統領のハビビが大統領に昇格。1999年の自由な政党活動の下での総選挙では闘争民主党が第一党となりましたが大統領指名選挙でワヒド大統領が誕生しました。

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インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語

アジア通貨危機をきっかけにルピアが暴落し、原油輸入価格が高騰したため、生活必需品やタクシー料金が値上がりし続け、国民の不満は当時タブーだったスハルトファミリー批判にまで至り、インドネシア各地で大規模な暴動が発生しました。

  • 1965年の事件が、共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという名目で行われた政権奪取と政権基盤の安定を目的としたデマゴギーの結果としての暴動。
  • 1998年5月の暴動はスハルト独裁体制の終焉に乗じて1965年の事変の再現を狙った中華系インドネシア人をスケープゴートとした特定の集団が扇動した暴動。
  • 2019年の暴動は同じ手法で社会を扇動しようとしたものの、民主主義国家となったインドネシアでは通用しなくなったことが証明された暴動。

インドネシアの歴史の過渡期には必ずといっていいほど、その時代を反映した流行語が生まれ、それらは素直に国民感情を代弁する秀逸なものばかりだと思います。1998年の燃料BBM値上げをきっかけに激化した学生運動とそれに乗っかった暴動でスハルト政権が退陣したReformasi(革命)の後には、IMF主導による高金利政策下でのハイパーインフレ時はKrisis moneter(金融危機)がやってきたと言われ、国が傾きかけたときに自然発生した3つ目の流行語がCinta Rupia(ルピアを愛そう)です。

インドネシア大統領選挙結果に対する抗議デモと暴動
インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語【大統領選挙結果に対する抗議デモ】

9月30日事件後の共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという大義名分による暴動、スハルト体制終焉に事変の再現を狙い中華系インドネシア人をターゲットとした扇動による暴動、今回の暴動では同じ手法での扇動が民主主義国家インドネシアでは通用しないことが証明されました。

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中華系インドネシア人とプリブミ(PRIBUMI)

インドネシア独立後、スカルノ大統領が共産主義に傾倒していったのは、ジャワ農村文化であるゴロンヨロン(相互扶助)や、伝統的合意形成方法であるムシャワラと全会一致のムファカットの姿が、共産主義社会の理想と相性が良かったからだと思われます。

スハルト政権の見解として、9月30日事件とはPKI(インドネシア共産党)が政権転覆のために、左派の大統領親衛隊をそそのかして引き起こしたクーデターであり、共産勢力に対する弾圧は社会治安の安定のために不可欠だったというものですが、実際にPKIは1963年末の段階で自称250万人の党員を抱えるソ連共産党、中国共産党に次ぐ世界で三番目に大きな共産党であったことから考えると、結果的にインドネシアの共産化が防がれたとも言えるわけです。

スハルト大統領の国家イデオロギーとしては「インドネシア建国の父」と評されるスカルノ大統領の正当なる後継者であることをアピールするために、建国五原則であるパンチャシラを国民の愛国教育に利用し、独裁長期政権のための政治体制を築く一方で、西側諸国との関係を深めることで外資導入を促進し外国援助を取り付けるスタイルは「開発独裁」と言われました。

東西に長く連なる島々で構成される広い国土に分散される多民族の国民を一つにまとめるために、パンチャシラをうまく利用する一方で、スカルノ時代を超えるためには反共産主義の姿勢をアピールする必要があり、パンチャシラが謳う「多様性の統一」と矛盾する中華系への差別的雰囲気を社会に醸成させました。

中華系インドネシア人とプリブミ(PRIBUMI)【民主化と経済成長のプロセスの中での心情の変化】

スハルト政権時代に、インドネシアの国家イデオロギーは共産主義のユートピア志向から資本主義のリアリズム志向への大転換が行われ、プリブミと中華系インドネシア人とが分断される空気が作られましたが、昨今の民主化と経済発展のおかげで、プリブミの心情が変化し中華系への理不尽な嫉妬が減ったと考えます。

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2020/11/29

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