インドネシアの歴史

インドネシアの歴史

「インドネシアの歴史」と聞いて思い浮かぶのは仏教王朝時代のボロブドゥール遺跡やヒンドゥ王朝時代のプランバナン寺院という歴史的建造物、オランダによるアジア貿易拡大を目的としたオランダ東インド会社の進出、「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」というじゃがたら文で有名なじゃがたらお春、第二次世界大戦時の南方作戦による大日本帝国の進駐、日本の敗戦後に400年近い植民地支配からの解放を勝ち取るための独立戦争、初代大統領スカルノからスハルト政権への移行とそれ以降の民主化という政治史などです。

自分の頭の中でインドネシアの歴史は「中世から近代までの王朝の歴史(5世紀~15世紀)」「植民地支配と独立までの歴史(1602年~1945年)」「歴代大統領政治史」という3つの大きな時系列に区切られており、そこから派生して世界遺産に登録されたボロブドゥール遺跡やジャカルタ北部コタ地区のファタヒラ広場周辺のバタビア調の建造物、歴代大統領誕生の過程などのマインドマップが広がっています。

5世紀頃に中部ジャワを中心にインドの文化・宗教・思想に影響された仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの叙事詩がジャワの文化として浸透していき、現在までワヤン(影絵芝居)の演目として引き継がれています。

スペインからの独立戦争である80年戦争の真っ最中の1602年にオランダは、ヨーロッパへの香辛料輸出拠点としてインドネシアに東インド会社を設立し、国内の各王朝との条約締結や交戦を繰り返しながら植民地支配地域を拡大していき、行政の中心地をバタビアと命名したものが今の首都ジャカルタに至っています。

1942年に日本がインドネシアに侵攻し1945年に敗戦した直後、初代スカルノ大統領が独立戦争を経てインドネシアの建国イデオロギーを確立し、「開発の父」と称されたスハルト大統領が工業化による経済発展を推進し、1998年のスハルト政権崩壊後に引き継がれた各政権で憲法改正、法律の制定・改正が繰り返され、民主化が着実に浸透していき現在に至ります。

特段歴史好きというわけではないのですが、例えば中部ジャワのボロブドゥール遺跡を見学しても、それがいつ頃の時代に誰によってどんな目的で建造されたのかという基本情報がなければ、単に「すごいなあ」「大きいなあ」という感想で終わってしまいますし、また単に壮大な外観や趣のある浮彫図についての感想を伝えるよりも、建設された当時の歴史的背景から説明したほうが間違いなく印象は良いはずです。

当ブログでは僕と同じようにインドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。

中世から近代までの王朝の歴史

インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡

インドネシアでは東西5,000km(アメリカ西海岸から東海岸までの距離)に連なる18,000個以上の島々のあちこちに小王国が建国される時、必ず何らかの宗教が土台となって国家運営に利用されてきた経緯があり、おおまかには15世紀までがヒンドゥ教と仏教中心の王国、15世紀以降に少しずつイスラム化がインドネシア全土に進行していきました。

インドネシアが誇る2つの世界遺産であるヒンドゥーのチャンディ(寺院)であるプランバナン遺跡(Candi Prambanan)と仏教のストゥーパ(仏塔)であるボロブドゥール遺跡(Candi Borobudur)の距離はわずか30kmしか離れていない事実からも、中部ジャワの王国が宗教を政治に利用しながら、衰退の過程では別の宗教に取り込まれるという歴史的経緯が見て取れます。

  • 8世紀に中部ジャワにシャイレーンドラ朝が建国され、仏教霊廟であるボロブドゥールを建立。
  • 10世紀に中部ジャワにマタラム王朝が建国され、ヒンドゥ霊廟であるプランバナン寺院を建立。
  • 15世紀以降にマタラム王朝がイスラム化。
  • 18世紀にイスラム教のマタラム王朝がジョクジャカルタのSultanとスラカルタ(ソロ)のSusuhunanに分裂。
中部ジャワの仏教寺院遺跡群ボロブドゥール
インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡 【歴史上世界最大規模の仏教寺院群】

インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡は、カンボジアのアンコールワットと並ぶ歴史上世界最大規模の仏教寺院群で、中部ジャワのジョクジャカルタの北西40kmほどの山間の街Magelangに存在します。

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歴史学の研究テーマである劇場国家という概念

アメリカの政治人類学者のクリフォード・ギアツの著作「ヌガラ-19世紀バリの劇場国家」 の中で展開される「劇場国家」という国家概念は、バリ島に栄えたいくつかの小王国(ヌガラ)では、祭儀の日がハレの日でそれ以外の日常はケの日であるという考え方の元に、祭儀こそが国を成立させる条件であり、国王が主催主、僧侶が監督、庶民が脇役、舞台装置係、観客を分担する劇場のように機能する上下階層のない国家だったというものです。

インドネシアのロンボク島で考えた「劇場型」という言葉
歴史学の研究テーマである劇場国家という概念 【インドネシアのロンボク島で考えた劇場型という言葉】

歴史学上ではかつてバリ島で栄えた小王国(ヌガラ)は「劇場国家」という概念で研究テーマとなっていますが、劇場型犯罪や劇場型政治などという言葉があるように、現代社会のあらゆる事象は、登場人物に対して主催者、監督、主役、脇役、観客などの役割を持たせることで、客観的な視点で論じやすくなります。

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連想記憶によるインドネシアの歴史の覚え方

高校の世界史のような知識詰込み学習はテスト問題を解くための一時的な知識ですが、ビジネスで役に立つ歴史の知識とは、現在見た映像や聞いた情報に実用性を持たせることが出来る知識であり、経験をベースにした物の捉え方や切り口によって、新鮮でより深い洞察力を得ることを目的としています。

植民地支配と独立までの歴史

オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区

ジャカルタはビジネス都市であって観光地ではないと言われますが、ジャカルタの魅力は地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業の中心地であり、バタビア(Batavia)時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。

  • 14世紀:ジャカルタ周辺はスンダクラパと呼ばれていた。
  • 16世紀にはジャヤカルタ(Jayakarta)と呼ばれるようになる。
  • 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなり首都バタビアと呼ばれる。
  • 1943年2月:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し日本の軍政下に入る。
  • 1945年8月12日:スカルノ・ハッタは大日本帝国陸軍の南方軍の寺内総司令官からいつでも独立してよしの言質を得る。
  • 1945年8月15日:天皇陛下による玉音(ぎょくおん)放送で終戦。
  • 1945年8月17日:インドネシアが独立を宣言(独立記念日)
  • 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争
  • 1949年:名実共に独立。
オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区
オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区【ジャカルタの発展の歴史を語るには外せない観光地】

ジャカルタの観光地としての魅力は、地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業の中心地で、ファタヒラ広場付近にはバタビア時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。

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じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵

1603年に徳川家康が征夷大将軍に就き江戸幕府が創設され、3代将軍である徳川家光の時代に徹底された鎖国令のために、イタリア人ハーフのキリスト教徒であるお春は、バタビアに追放されました。

「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」の悲しいイメージがありますが、実際にはバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して三男四女を儲け、富を築いて大勢の使用人を使っていた結構な勝ち組だったようです。

1602年の東インド会社の進出を契機にオランダの植民地支配が300年以上続き、当時のオランダ領東インドには、19世紀の後半から20世紀前半までに多くの日本人経営の商店、トコ・ジャパン(日本人商店)がありました。

「じゃがたら」というのは16世紀のJayakartaがなまってJacatraとして広まったもので、今の呼称Jakartaと綴られるようになったのは1945年のインドネシア独立後のことで、歴史的に見るとごく最近の話になるのですが、時代とともに変遷してきた昔の名前は、現在でも愛着をもって地名や店名として使われています。

  • 14世紀はSunda Kelapa
    ⇒今はAncol付近の港名
  • 16世紀にはJayakarta
    ⇒リーズナブルなJayakarta Hotelの名称として残っている。
    ⇒この時代のJayakartaがなまってJacatra(ジャカトラ)という言葉が広まって、インドネシア産のモノがじゃがとら芋、じゃがとら絹と呼ばれました。
  • 17世紀から20世紀前半のオランダ統治時代はBatavia
    ⇒ジャカルタの名所Cafe Batavia
  • 1942年に旧日本軍がDjakartaに改名
    ⇒Djakarta Theater XXIという系列映画館が有名

当時の行商人や売薬商、女衒(ぜげん)に騙され売り飛ばされて来た「からゆきさん」などが、バタビア周辺だけではなくインドネシアの各地に根を下ろして生活しており、中央ジャカルタのプタンブラン公営墓地にある日本人納骨堂には、バタビアで商店を営んでいた日本人商人以外にも、多くの「からゆきさん」の遺骨が納められていると言われています。

ジャカルタで会える昔の日本人の足跡
ジャカルタで会える昔の日本人の足跡【じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵】

じゃがたらお春はバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して富を築いた勝ち組だったようです。女衒に騙され売り飛ばされて来たからゆきさんはインドネシアの各地に根を下ろして生活していました。敗戦後にインドネシアに残った日本人兵士がインドネシア人と共にオランダ軍・イギリス軍と戦いました。

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インドネシアはどこから独立したのか?

インドネシアの独立記念日である1945年8月17日は、時系列的にはたまたま日本軍政下にあっただけ(正確には日本の敗戦から2日後)で、実質的にはオランダによる350年間の植民地支配と3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利であり、インドネシア人自らが勝ち得た独立と言えます。

  • 日本書紀の記述にある初代天皇である神武天皇が即位した紀元前660年を元年として紀年した皇紀がインドネシアの独立宣言書の日付に皇紀2605年を意味する「05」(2605 - 660 = 1945)として採用されている
  • インドネシアにとっての独立とは、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利。
インドネシアはどこから独立したのか
インドネシアはどこから独立したのか?【歴史上日本からの独立か植民地主義からの独立か】

インドネシアの独立は、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配という屈辱の歴史の中で形成された民族主義の勝利であり、インドネシア人の心の奥底には自力で独立を勝ち取ったプライドがあります。

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ムラユ語からインドネシア語への発展の背景

1824年の英蘭条約でマラッカ海峡を境にイギリス領とオランダ領に分断された後に、同じムラユ語発祥でもマラッカ海峡で分断されてインドネシア側はオランダ語とかジャワ語とかスンダ語の影響を受けて、マレーシア側は英語とかその他ローカル言語の影響を受けて、それぞれ200年ほど熟成された結果が、今のインドネシア語とマレーシア語の違いです。

歴代大統領政治史

インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」

深田祐介著「ガルーダ商人」では、サリナデパートがインドネシア初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられた、インドネシア最初の大型デパートチェーンである史実が記載されており、その建設プロジェクトの受注を巡って、日本の戦後賠償引当の借款を資金として、複数の日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しく利権争いを繰り広げます。

日系商社はまず大統領からプロジェクト受注の指名を受けた後、日本政府に対して戦後賠償の中からサリナプロジェクトの資金を引き当てるよう働きかけ、賠償を担保とした円借款を銀行との間で取りまとめ、建設会社を通してプロジェクトの管理の責任を持つという役割を担います。

ストーリーを通して、日系商社が大統領からプロジェクトの指名を得るために日本政府の大物に根回しをし、女性に弱いスカルノ大統領の歓心を得るために日本人女性を「人身御供」として利用しますが、その中の一人であるディア(旧姓根本七保子であるデヴィ夫人がモデル)が、利権争いに翻弄されながらも大統領と日系商社との駆け引きを通じて、したたかに生き抜いていく様が描かれています。

インドネシアの現代政治史やバラエティ番組で活躍中のデヴィ夫人の生き様、商社が戦後賠償を原資として利益を得るカラクリなど、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人にとっては、現在の日本とインドネシアの関係の裏にある背景を理解する上で、非常に勉強になる名著だと思います。

サリナデパートとマクドナルド
インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」【マクドナルド1号店閉店とサリナデパートの歴史的背景】

インドネシアのマクドナルド1号店のあるサリナデパートは初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられたインドネシア最初の大型デパートチェーンであり、インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」の中には、日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しく利権争いを繰り広げた歴史的史実が記載されています。

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インドネシア政治史上パワーバランスが変わった9月30日事件

スカルノ政権後期におけるインドネシア共産党がインドネシア陸軍と対立するスカルノ政権を支えており、1965年9月30日、左派の大統領親衛隊が陸軍トップ6人を殺害し、革命評議会によるクーデターを企てましたが、これを戦略予備軍司令官スハルト少将が制圧すると、共産党勢力の一掃をはかるための民間人を扇動した「赤狩り」が行なわれ、100万人規模の犠牲者が出たと言われています。

反共産主義の象徴であるパンチャシラ・サクティ記念碑【現代政治史上パワーバランスが変わった9月30日事件】
インドネシア政治史上パワーバランスが変わった9月30日事件【反共産主義の象徴であるパンチャシラ・サクティ記念碑】

インドネシア共産党によるクーデーター未遂である9月30日事件でスカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。

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インドネシアの歴代大統領から見る現代政治史

初代大統領スカルノが建国五原則であるパンチャシラを元にインドネシアの国家としての礎を築き、スハルト大統領が西側諸国との良好な関係を元に経済発展を推し進め、ハビビ大統領による長期独裁政治が出来ない法整備が民主化の足掛かりとなり、メガワティ大統領の時代に憲法改正により三権分立が確立され、インドネシア初の大統領直接選挙で選ばれたSBY(ユドヨノ)大統領がテロの撲滅と民主主義経済の仕組み作りを行い、ジョコウィ大統領がインフラ整備と産業の高度化を推し進めています。

  1. 1998年5月にスハルト氏退陣に伴いハビビ氏が副大統領から昇格し、ゴルカル党による権力集中独裁国家から近代民主主義国家への移行のための法改正を行い、2004の大統領直接選挙に繋がる。
  2. 1999年の政党活動が自由化され政党が乱立する状況で行われた総選挙の結果、第1党PDI-P、第2党ゴルカル党、第3党PKBという状況での、MPR内での大統領指名選挙でグス・ドゥル氏が勝利、副大統領にメガワティ氏就任。
  3. 2001年グス・ドゥル(ワヒド)大統領弾劾に伴いメガワティ氏が副大統領から昇格したあと、2004年の最初の国民による大統領直接選挙でSBY氏が現職メガワティ氏を破り、2009年にも再選。
  4. 2014年大統領選挙ではソロ市長、ジャカルタ特別州知事を経たジョコウィ氏がプラボウォ氏を僅差で勝利。2019年に再選。
2019年の総選挙を前にインドネシア政治史のおさらい
インドネシアの歴代大統領から見る現代政治史【2019年の総選挙を前に政治史のおさらい】

初代大統領スカルノは1965年の9月30日事件と3月11日事変後にスハルトに政権を委譲。1998年の暴動による社会混乱を機に副大統領のハビビが大統領に昇格。1999年の自由な政党活動の下での総選挙では闘争民主党が第一党となりましたが大統領指名選挙でワヒド大統領が誕生しました。

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インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語

アジア通貨危機をきっかけにルピアが暴落し、原油輸入価格が高騰したため、生活必需品やタクシー料金が値上がりし続け、国民の不満は当時タブーだったスハルトファミリー批判にまで至り、インドネシア各地で大規模な暴動が発生しました。

  • 1965年の事件が、共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという名目で行われた政権奪取と政権基盤の安定を目的としたデマゴギーの結果としての暴動。
  • 1998年5月の暴動はスハルト独裁体制の終焉に乗じて1965年の事変の再現を狙った中華系インドネシア人をスケープゴートとした特定の集団が扇動した暴動。
  • 2019年の暴動は同じ手法で社会を扇動しようとしたものの、民主主義国家となったインドネシアでは通用しなくなったことが証明された暴動。

インドネシアの歴史の過渡期には必ずといっていいほど、その時代を反映した流行語が生まれ、それらは素直に国民感情を代弁する秀逸なものばかりだと思います。1998年の燃料BBM値上げをきっかけに激化した学生運動とそれに乗っかった暴動でスハルト政権が退陣したReformasi(革命)の後には、IMF主導による高金利政策下でのハイパーインフレ時はKrisis moneter(金融危機)がやってきたと言われ、国が傾きかけたときに自然発生した3つ目の流行語がCinta Rupia(ルピアを愛そう)です。

インドネシア大統領選挙結果に対する抗議デモと暴動
インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語【大統領選挙結果に対する抗議デモ】

9月30日事件後の共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという大義名分による暴動、スハルト体制終焉に事変の再現を狙い中華系インドネシア人をターゲットとした扇動による暴動、今回の暴動では同じ手法での扇動が民主主義国家インドネシアでは通用しないことが証明されました。

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中華系インドネシア人とプリブミ(PRIBUMI)

インドネシア独立後、スカルノ大統領が共産主義に傾倒していったのは、ジャワ農村文化であるゴロンヨロン(相互扶助)や、伝統的合意形成方法であるムシャワラと全会一致のムファカットの姿が、共産主義社会の理想と相性が良かったからだと思われますが、インドネシアの国家イデオロギーは、スハルト氏によってユートピア社会志向から、真逆のリアリズム志向へと方向転換することになります。

2020/11/29

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