現世で贖罪して許しを請うか執着を捨てて解脱するか【人に対する罪と神に対する罪の違い】

現世の罪を神に贖罪して許しを請うという一神教の考え方

明日はイスラムのラマダン(Ramadan 断食月 )の最終日、今年はイスラム暦の9月にあたる5月6日から6月4日までの1ヶ月間で、夜明け前のお祈りの時間(ファジュル)から日没時のお祈り(マグリブ)まで断食(インドネシア語でpuasa)することで空腹や自己犠牲を経験し飢えた人への共感を学ぶというのが趣旨ですが、明後日6月5日はイスラム暦の10月1日にあたる断食月明け大祭、アラビア語の英語表記でEid ul-Fitr、インドネシアではIdul fitriとかレバラン(Lebaran)と呼ばれ、2億6千万人の人口のうち約87%の2億2千万人がイスラム教徒であるインドネシアにとって、1年間で最大の祭日となります。

ジャカルタの都市圏人口3,200万人のうち2,000万人が帰省(Mudik)してしまうということで、世界最悪の渋滞と言われるジャカルタの道路もレバラン期間は閑散としており、在住日本人でジャカルタ居残り組の人にとっては、渋滞を気にせずタクシーで行きたいところにいけるというメリットがある一方で、田舎に向かう高速道路の渋滞は激しいようで、普段なら車で5時間ほどで到着するはずの西ジャワのチレボン(Cirebon)まで、12時間もかかったという話も聞いています。

自分は嫁はんがクリスチャンなのでイスラム文化にほとんど縁のない生活をしていますが、レバラン休み明けに客先訪問すると、インドネシア人スタッフから握手とともに以下の挨拶の言葉をもらいます。

  • Mohon maaf lahir dan batin.

これは「行動(lahir 外面)と思ったこと(batin 内面)の全ての罪をお許し下さい」という謝罪の言葉であり、異教徒である僕がこの言葉をもらってもいいものか、また同じ言葉をイスラム教徒に返して良いものかはよくわかりませんが、生まれてから今日までの自らの行いについての謝罪の挨拶をもらうと、相手が普段はいけ好かない奴だったとしても、これまでの言動は水に流してやらないと、こっちが心の狭い人間になるような罪悪感を感じさせられる最強ワードです。

イスラム教やキリスト教はユダヤ教から派生した宗教であり、現世での罪を神に対して贖罪するという考え方が根底にあり、人間は神に対する罪人として贖罪のために生き、贖罪を果たしたものだけが天国へ行けるようで、具体的な贖罪方法の一つとしてイスラム教の場合はZakat Fitrahという米や麦などの生活食材、お金などを貧しい人々に喜捨する行為があります。

人間の罪と苦しみからの解放を、善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うことができ、最終的に贖罪により許しを請う対象は絶対的な神です。




現世での執着を捨て煩悩から解脱するという仏教観

以前日本在住のインドネシア人クリスチャンとの会話の中で、インドネシア語で「罪」という言葉は、神に対する罪は「dosa」で人に対する罪は「kesalahan」とか「kriminal」とか区別されるのに、日本語で「罪」という言葉は刑事犯罪の罪にも神の教えに反する罪にも使われるのはおかしい、と言われたことがありますが、これは仏教や神道で神に許しを請うという概念がないため、日本語の「罪」という言葉は、相手が人であるか神であるか区別がないのだと思います。

キリスト教やイスラム教とは違って仏教に神は存在せず、死んだらみな仏になり(成仏)、生きている間に修行によって「身(体)と意(心)と口(言葉)」の三つの罪の根源である三業を鍛えることで煩悩から解放されることで悟りの境地に達すれば即身成仏(そくしんじょうぶつ)になります。

仏教的に「幸せに生きる」という意味は、現世で世の中の仕組みの全てが理解でき煩悩から解放され悩みがなくなる状態(解脱)です。

仏教の修行である禅では「拘り(こだわり)を捨てる、執着を捨てる」というのがありますが、これはヒンドゥー教の修行であるヨガの「断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)」から派生しているものであり、やましたひでこさん提唱の「断捨離」はモノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、心もストレスから解放されてスッキリすると同時に、モノを捨てるだけでなく本当に大事なものに気づくことが重要だと説明しています。

また捨てられるモノに対して「今までありがとう」と感謝を伝えることは、日本古来から伝わる土着信仰、すなわち万物に神様がいると考え自然界から霊的なスピリッツを吸収しようとする八百万の神の考え方にも繋がるものがあるかもしれません。

さらに仏教で供養するという場合、死者の霊に供え物をして死者の冥福を祈ることを意味すると思われがちですが、実際には来世に旅立った故人対して行うのではなく、残されたこの世に生きる人を敬い、尊い命を授かったことに感謝するという、現世に対しても行うという意味が強いのです。

断捨離や観仏供養でお別れを告げなければいけないのは、モノや故人そのものというよりも心の中にある執着であり、執着から解放され現世の大切なものと向き合うということは、これすなわち罪の根源である三業を鍛える修行の一つではないかと考えます。