多宗教国家インドネシアで死んだ後の天国への帰り方と地獄への逝き方

2018/02/20

ハイタッチ

インドネシア人が無宗教の日本人に「死ぬとき不安じゃないの?」と聞くのは「現世で何をすれば地獄じゃなく天国に帰れるのかを知らないで過ごすなんてあり得ない」と言っているわけで、イスラム教もキリスト教も天国に帰るか地獄に逝くかの審査は似たようなものだが天国に行っても格差はあるとのことです。

死んだあと「逝く」か「帰る」か

先日、末期ガン患者の死に立会いました。

人の死に立ち会うのはこれが2回目ですが、例え相手が初対面の人であるとはいえ、関係者が涙ながらに祈りをささげる姿を見るのはつらいものがあります。

心電図が「ピッ・・・ピッ・・・ピッ」と脈拍87を刻み、そのうち少しずつフラットになる頻度が増え、最後に脈拍0となり「ピーーー」という音に変わると、ドクターが粛々とペンライトで対光反射を確認し臨終を告げます。

集まったクリスチャン仲間は最期の時まで涙ながらに祈りをささげ、ドクターが心電図のフラット音を停止させるのを待ってから、関係者に電話で臨終の報を伝えていました。

  • Dia surah pulang ke rumah(彼はたった今、家に帰りましたよ)

「家に帰る」とは「人間を創造した神の元に帰る」という意味です。

死んだらどこか知らない死後の世界に「逝く」と考えていた自分にとって、クリスチャンの「帰る」という発想は新鮮であり、どうせ死ぬなら「逝く」よりも「帰る」ほうが、なんか安心感があっていいかもしれません。

Siloam病院のCritical Care(救命救急)棟、インドネシアでの最高レベルの設備だけあって、実家の市立病院の設備とは大違いでした。日本では「逝く」といいますが、クリスチャンはpulang ke rumah(家に帰る)と言います。どっちでもいいのですが、「帰る」のほうが当事者は心安らかかもしれません。

クリスチャンの場合、死んだら上空にある主の元にあるSurga(天国)に「帰る」か、地底深くで炎が燃えさかるNeraka(地獄)に「逝く」のどっちかであり、通常僕のような無心論者は、問答無用で地獄逝き決定らしいのですが、幸いなことにうちの嫁さんが、日々祈りをささげることによって、異教徒用の天国「帰り」チケットを取得してくれているそうですので、安心して死ねます。

仏教には輪廻転生という言葉のとおり、死んだ人はこの世に生まれ変わってまた死んで生まれ変わるという宗教観があります。

  • 「逝く」からには必ず「帰る」があるはず、「何度もこの世に生まれ変わる」仏教観からすると死んだあと「逝く」と表現するのは当然のことだろうね。

イスラム教徒の友人がこう話すのを聞いてなるほどと思いました。

キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生した宗教

そもそもキリスト教もイスラム教も、紀元前から存在したユダヤ教から「派生」したものであり、イエス・キリストの誕生日の年を西暦0年として今に至るのがキリスト教で、500~600年後に「派生」してアラブの生活習慣が反映されたのがイスラム教ですから、双方の教義の根っこは同じです。

根っこが同じなら、双方が信仰する唯一神も同じもののようにも思えますが、うちの嫁さん曰く、Tuhan(神)はイエス・キリスト本人であり、使徒ムハマンド(Mohammed)が伝えるイスラムの神アッラーとは別ものだそうです。

またユダヤ教からの「派生」というのは、旧約聖書を自分の宗教に都合がいいように、新約聖書またはコーランとして書き換えたとも言えるわけで、この辺が宗教間対立の根になっていると思われます。

神はアダムを創り、一人ぼっちでかわいそうだからイブも創って、その間に生まれたのが人類になったという考えはキリスト教もイスラム教も同じであり、僕のように人類の祖先はサル(類人猿)だと考えている平凡な日本人の感覚からすると、どうしても違和感があります。

ノアの箱舟

イスラエルの民の歴史である旧約聖書の創世記に記述されるノアの方舟

弊社の社名に付くBAHTERAとの関連性を問われる鯖の押し寿司のバッテラは、ポルトガル語の小舟を意味するbateiraを語源とします。旧約聖書の創世記に記述されるノアの方舟はインドネシア語ではBahtera Nuhになり大きめの船のことをBAHTERAと呼びます。

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クリスチャンであるうちの嫁さんからすると「ダーウィンの進化論」なんてあり得ないわけです。

宗教は死への不安を和らげる

インドネシアではイスラム教、カトリック、プロテスタント(クリスチャン)、ヒンドゥ教、仏教のうち、どれか一つの宗教を持つことが義務付けられており、KTP(住民登録証 Kartu Tanda Penduduk)にも宗教の記載があります。

インドネシア人は、日本人は無宗教だということを知ったとき、必ずこう聞いてきます。

  • 死ぬとき不安じゃないの?

これは「この世で何をすれば地獄ではなく天国に帰れるのかを知らないというのは不安でしょ?」と言い換えられます。

キリスト教徒もイスラム教徒も、とりあえず死んだあとの地獄逝きさえ回避できれば、この世で生きるうえで「死への不安」は和らぐわけです。

イスラム教徒の友人が言うには、天国に帰るか地獄に逝くかの決定の際に、それほど厳しい審査があるわけではなく、天国に帰るための一番の近道は、唯一神であるアッラーを信じることだそうです。

これはキリスト教でも同じで、クリスチャンであるうちの嫁さんによると、唯一神であるイエス・キリストを信じることでとりあえずは天国に帰れます。

ややこしいのは天国にもランクがあって、この世での行いが悪いと「地獄よりはぜんぜんマシだが監獄のような天国」に帰り、熱心に教会で祈りを捧げたり、他人を助けたりすると「最上の天国」に帰ることができるようで、天国に帰っても格差社会の枠組みからは出られないようです。

いちばん良くないのが自殺で、自殺すると問答無用で地獄逝きが決定し、地獄ではエンドレスなsiksa(拷問)が待ち受けているのでクリスチャンは基本的に自殺しないらしい。

日本人の自殺が多いのは無宗教が原因であり、地獄逝きが判っていれば自殺なんてしないはずだ、といううちの嫁さんの見解にも一理あると思います。

クリスチャンの義妹が再び悪魔に憑りつかれた

日本では誰もいないところで声が聞こえる人にはPsikolog(精神科)でお薬を処方して貰うことを勧めますが、インドネシアのクリスチャンの教会関係者にとっては神と悪魔との対話は日常的なものであるため、僕のような無神論者には見えない何かに対して話かけたり、笑ったり、涙を流したりするのは普通の光景です。

クリスチャンから、インドネシアでは神と悪魔との対話は日常的なものと言われたので、日本では誰もいないところで声が聞こえる人にはPsikolog(精神科)を勧めると言ったら、あなたはシステムエラーを起こしていると言われ、宗教的な話の中で急にIT用語でで咎められたのでグサッときた。

うちの嫁さんの妹(義妹)はドイツ留学からインドネシアに戻り原子力による植物の影響を研究している公務員研究員なのですが、とにかくガラスのように繊細な心の持ち主で、ある事件をきっかけとして心が傷ついたことにより、狐憑きにでもあったかのように意味不明なことをつぶやくようになりました。

以前彼女は悪魔に憑りつかれたことがあり、複数の教会を回って祈祷師(Pendoa)に悪魔祓いのお祈り(Doa)をしてもらい、そのとき猿だのトカゲだのジャワの婆だのの悪魔を吐き出させ、しまいには祈祷師の指示通り中部ジャワのソロの実家まで行って、開かずの部屋で埃をかぶっていた鏡台を破壊し、クリス(ジャワの剣)の木製の模型を焼却したことがあります。

カトリック教会

インドネシアの教会で行うクリスチャンの悪魔祓いの儀式

有名なホラー映画「エクソシスト」ではカトリック神父が少女の悪魔を取り払う話でしたが、インドネシアでも心の中に潜むサタンを除霊のような方法で退散させるクリスチャンの悪魔祓いの儀式があり、何世代にも渡って取り憑いてきたサル、蛇、トカゲ、お婆さんなどの悪魔を剥ぎ取るには簡単ではありませんでした。

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正直なところ「またかよ・・・」という気持ちでしたが、一応身内に当たる人間で心優しい優秀な女子であるため、PSBB(大規模社会制限)の最中にもかかわらず、自宅に呼んで祈祷師に悪魔払いをしてもらった結果、幸い今回は過去の事件のフラッシュバックによるもので軽傷だったようで、何かに憑りつかれたような表情が和らぎ、普通の会話ができるまでになりました。

教会からPendoa(祈祷者)来てギター弾きながらDoa(お祈り)をして帰っていったが「私は一回死んだことがありそこで天国と地獄と神と悪魔をこの目で見た」言ったので、すごいですねぇと相槌を打ったものの、天国と地獄って一回だけで見られるのか?宗教者との会話では毎回価値観が揺さぶられる。

異教徒である僕は、クリスチャンの信仰は尊重するが自分は巻き込まれるのは勘弁というスタンスであり、今後の義妹との接し方も知りたいので、嫁はんと一緒に祈祷師のお兄ちゃんの話を黙って聞いていましたが、こっちが日本人だと分かるとさっそく「イエスキリストを信じるか」「天国と地獄を信じるか」「聖書を読みなさい」などたたみかけられ、ある程度予想はしていたこととはいえうんざりしました。

彼らの話の要点としては、悪魔は誰しもの心の中にじっとおとなしくしているが、ひとたび憎しみの感情が湧き起こると悪魔を呼び起こす、だから人を憎んではダメ、彼女(義妹)がおかしな言動をするようになっても決して怒ってはいけません、我慢が大切ですということなんですが、正直なところ「我慢するのは俺だけかよ」という気持ちです。

仏教的価値観では理解できないクリスチャンの他力本願な考え

仏教的価値観には三力加持(さんりきかじ)というものがあり、困難を乗り越えるためには自分の努力と周囲の助けと仏様の力の3つが揃う必要があるという教えですが、たびたび悪魔に憑りつかれる義妹が可哀そうだとは思いながらも、本人の努力がイマイチ感じられず、そんな状況で祈祷師から面と向かってお前が我慢しろ的なことを言われると正直モヤります。

まあ人間の体は神によって創られたという前提の人々と、元をたどればピテカントロプスに行きつくと考えている自分が議論しても仕方ないわけで、初対面の若造の祈祷師に「あなたの行動はすべて聖書の中に書いてある」とか言われると「お前に俺の何が分かると言うんだ」という気持ちにもなりましたが、次回彼女が発症したら精神科ではなくてあんたの教会に連れていくよと言っときました。

教会関係者がcovid-19の消毒をしたいと言って玄関に散布していったアルコールにぶどう酒を混ぜていたようでタイルがうっすら赤く汚れてこんな時間にモップ掛け。マジ勘弁して欲しい😩

仏教的価値観からするとクリスチャンの考えが自己本位に思えてならないのですが、何の見返りも取らず出張して悪魔祓いのお祈りをしてくれたり、帰り際に玄関にコロナウィルス駆除のアルコールを散布してくれたり、現世で徳を積むことで天国の主の元に帰りたいと希望している彼らが善人であることは間違いないようです。

無宗教の日本人が宗教必須のインドネシアで生活すること

先週土曜日の夜、ジャカルタで地震がありまして、28階の部屋のダイニングテーブル上のランプが結構な幅で揺れました。僕は元々右耳の三半規管がおかしいので特段の揺れは感じず、ランプの揺れを指摘されてから「おー」という程度です。

一般的に日本人は地震慣れしていますが、インドネシア人は地震慣れしていないので、小さな地震でもかなり恐怖を感じるようです。高層階に住んでいると倒壊とかいろんな悪夢を想像するんでしょうね。アパート借りるときも地震で倒壊なんてありえないから、と言い聞かせているのですが、実際に揺れてみるとそんな事前情報意味なしです。

で、今回ゆらゆら揺れている間、嫁さんは目をつぶって神様に祈ります。元カトリックで最近クリスチャンに改宗したばかりですが、普段宗教について敢えて考えないようにしている僕には何を祈っているのかは分かりません。うちの嫁さんが祈る場面は食事前と飛行機が揺れるときと、そして今回の地震のときです。

インドネシア人はKTPに宗教を登録する必要があるくらいですから宗教があるのが普通で、昔インドネシアに来たばかりの頃に

  • 僕は共産主義者だから宗教がないんです

という冗談が、一般のインドネシア人にとってはあまり笑えないものだと知るまで半年ほどかかりました。

オフィスやレストランや駅に当然のようにイスラムのお祈り部屋があり、日系企業であれば「お祈り」という言葉がほぼインドネシア語化している環境に居ても、未だに「宗教とはなんぞや」とか「神の存在」とかについて考えたことはありません。

もちろん宗教とか神様とかは敬う対象だとは思っていますが、うちの嫁さんの言葉を聞くと神様は「依存してもいい対象」というように聞こえるのですが、この感覚がどうしても理解できないのです。

だから日本に一時帰国するとだいたい神社に参拝しますが、頭の中で考えることは

  • 無事に過ごせてありがとうございます。また今年一年安全でありますように

くらいなもんで、特にお願いごとをするような感覚がありません。

他人の宗教は尊重するし敬いもしますが、だからと言って毎週日曜日の教会での礼拝に時間を取られるのは損じゃん、寄付だけでも結構な額になるし、ブツブツ、という不謹慎なことすら考えることがあります、神様許して。

祈ることで心が落ちつくのならそれで十分

しかし今回地震で揺れる28階のアパートの部屋で嫁さんが祈る姿を見て少し考えが変わりました。

  • 祈ることで心が落ち着くのであればそれだけですばらしいことじゃないか

飛行機が苦手な嫁さんは、気流で揺れると手のひらが汗びっしょりになるくらい緊張しています。そんなときに祈ることで気持ちを静めることができるのは、それだけですばらしいことだと思います。

僕は軽い高所恐怖症と閉所恐怖症で、恐怖を感じたとき祈る対象がないのでじっと我慢するしかないのですが、信仰があれば祈ることで気持ちが救われるのかもしれません。

今後も自分が特定の宗教に信奉する状況を想像しにくいのですが、相手の信仰を尊重し敬う気持ちの大切さを、今回の地震で気づかされました。

仏教における供養とは

先週3年ぶりに福岡の実家に帰省して、代々お世話になっているお坊さんとお会いし、仏教において供養するという言葉の本当の意味について、興味深い法話をいただきました。

大牟田一般的に供養するという場合、死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ることを指しますが、浄土真宗での供養とは来世に対して行うのではなく、残されたこの世に生きる人を敬い、尊い命を授かったことに感謝するという、現世に対して行うものであるということです。

地球が誕生したのが46億年前、そして生命体が誕生してから38億年、今ここにある自分の命は突然湧いて出てきたものではなく、この38億年間を脈々と受け継がれてきたものであり、歴史上非常に貴重で尊いものであるはずです。

それなのに、昨今の世知辛い世の中で生きていくなかで、そんな生命の尊さなどを考える余裕はなく、生きるのがつらい、いっそこの世から消えてしまいたい、という感情が湧き上がることもあるのが人間です。

祥月命日(年に一度の命日のこと。月命日は年に11回)といえば、死者を弔い供養する日という後ろ向きのイメージがありますが、そうではなく現世で生きている残された人間が、自分自身の命の尊さについて考え、他人の命を敬う日であると考えることで、来世に逝ってしまった人の死を無駄にせずに、その人の現世での振る舞いや言葉をしみじみと思い出し、自分もこの世に生まれて良かったと考え、残りの人生をいかに生きていくかを考え直すという、前向きで建設的な意味が出てきます。

安楽死と尊厳死に対する仏教とキリスト教の考え方

神から何らかの役割を持たされて、この世に生を受けて誕生し、死んだ後に主の元に帰るというキリスト教的世界観の中では、現世では神に帰依する(頼みとして、その力にすがること)ことが普通なので、仏教のようにこの世に生まれてきた奇跡に感謝し、現世を一生懸命生きようという発想は、相容れないものかもしれません。

それにもかかわらず仏教もキリスト教も、安楽死に否定的で尊厳死はやむを得ずという考えでは概ね一致しているのは、命というものが仏教的に38億年の歴史の中を脈々と受け継がれてきたものであれ、キリスト教的に神から現世で行うべきことを遂行するために与えられたものであれ、天寿を全うすることこそが正しい行いであることで一致しているからです。

日本では法律的には、医者が患者を苦しみから解放させるために、薬の投与で命を絶つ安楽死は認められていませんが、延命治療を止めて痛み止めの処方のみを行い自然死を待つ尊厳死は認められています。

そして宗教的にも医者が患者の命を絶つことは、どんな理由であれ天寿を全うする行為を否定する罪となりますが、延命治療をストップして自然にまかせることは、消極的ではあれ天寿を全うした結果であるとして、ぎりぎりセーフの範疇に入るのです。

キリスト教(クリスチャン)と仏教における命の考え方

今回、実家への帰省のついでに、鹿児島在住の嫁さんの友人(クリスチャンのインドネシア人)に会うため市内に3泊ほどしました。

鹿児島市内鹿児島市内は路面電車が今も市民の生活の足として日常的に利用され、地元住人は特に意識はしていないけれども、実は路面電車が街全体をレトロな雰囲気に演出し、観光客を引きつける偉大な観光コンテンツ化しているのは間違いないと思います。

前日まで滞在した水俣のホテルで、カツオやら太刀魚やらの刺身をたらふく食べた結果、たぶんアニサキスが原因で、不定期に襲ってくる胃痛に苦しんでいる自分に対して、クリスチャンである嫁さんの友人は、人間は生まれてから死ぬまでのすべての行いが記載されてある「命の手帳」が存在し、現世での人間の行動はそこに書いてあるとおりになされるという、またまた興味深い話をしてくれました。

すべてあらかじめ手帳に記載されているというのであれば、先に事前にそれを見せてくれていたら食べなかったのに、とも思いますが、キリスト教的世界観を尊重はするが同意はしない自分に対して、人間がこの世に存在する以上、神から何をなすべきかの教示を得ているということを伝えたかったのだと思います。

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多宗教国家インドネシアで死んだ後の天国への帰り方と地獄への逝き方

インドネシア人が無宗教の日本人に「死ぬとき不安じゃないの?」と聞くのは「現世で何をすれば地獄じゃなく天国に帰れるのかを知らないで過ごすなんてあり得ない」と言っているわけで、イスラム教もキリスト教も天国に帰るか地獄に逝くかの審査は似たようなものだが天国に行っても格差はあるとのことです。

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命に対する考え方は、仏教の場合は、生命の進化の過程の結果として奇跡的にここに命が存在することを認識できるという意味で演繹的であり、クリスチャンの場合は、人間は今ここにある命を手帳の記載どおりに全うしているということを意識することで、人間は神から何らかの教示を得た上で存在しているということを認識できるという意味で帰納的であると言えるかもしれません。