インドネシアの方が無宗教の日本人に「死ぬとき不安じゃないの?」と聞くのは、現世で何をすれば天国に帰れるのかを知らないで過ごすのはあり得ないという考えからです。イスラム教もキリスト教も、天国に帰るか地獄に逝くかの審査は似ているようですが、天国に行っても格差があるとのことです。
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イスラム教徒が多数派のインドネシアで宗教と共に生きる|文化・習慣・歴史から学ぶ信仰の実態
インドネシアでは多様な宗教的出来事が日常的に見られる。5世紀からの宗教の歴史的変遷が地域ごとの独自の宗教色を形成。民主化の進展とシャリーアとの共存がインドネシアの特徴。
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この記事でわかること
- インドネシアでは宗教が生活の一部であり、無宗教の日本人に驚きを感じます。
- キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生し、共通の教義を持ちながらも神の解釈が異なります。
- クリスチャンは死を「帰る」と表現し、安心感を持って最期を迎えます。
- 仏教とキリスト教は命の価値観に違いがあるが、安楽死に対する否定的な姿勢では共通しています。
- 宗教観によって命の意味の捉え方が異なり、仏教は演繹的、キリスト教は帰納的な視点を持つことがあります。
「逝く」ではなく「帰る」──インドネシアの病院で見たクリスチャンの祈りに包まれた最期
私はジャカルタのSiloam Hospitalsで、末期ガン患者の最期に立ち会いました。人の死に立ち会うのはこれが2回目ですが、初対面の人であっても、関係者が涙ながらに祈る姿を見るのはつらいものです。心電図が「ピッ・・・ピッ・・・ピッ」と脈拍を刻み、徐々にフラットになり、最後に「ピーーー」という音に変わると、ドクターが対光反射を確認し臨終を告げます。集まったクリスチャン仲間は涙ながらに祈りをささげ、ドクターが心電図の音を停止させるのを待ってから、関係者に臨終の報を伝えていました。
「家に帰る」とは「人間を創造した神の元に帰る」という意味です。死後の世界に「逝く」と考えていた私にとって、クリスチャンの「帰る」という発想は新鮮で、安心感があります。Siloam病院のCritical Care棟はインドネシアでの最高レベルの設備で、実家の市立病院とは大違いでした。日本では「逝く」といいますが、クリスチャンはpulang ke rumah(家に帰る)と言います。「帰る」のほうが心安らかかもしれません。
仏教には輪廻転生があり、死んだ人は生まれ変わります。私も身体的特徴については「来世で頑張ろう」と考えています。
イスラム教徒の友人がこう話すのを聞いて、なるほどと思いました。
事例:クリスチャンの場合、死後は主の元にあるSurga(天国)に「帰る」か、Neraka(地獄)に「逝く」のどちらかです。無心論者の私は地獄行きですが、妻が異教徒用の天国「帰り」チケットを取得してくれているので安心です。
要点:クリスチャンは死を「帰る」と表現し、安心感を持って最期を迎えます。宗教によって死後の捉え方は異なりますが、それぞれに独自の視点があります。
キリスト教・イスラム教の共通点と違い|ユダヤ教から派生した一神教の本質とは?
キリスト教とイスラム教は、紀元前から存在したユダヤ教から派生した宗教です。キリスト教はイエス・キリストの誕生を基に西暦0年から始まり、イスラム教はその500~600年後にアラブの生活習慣を反映して成立しました。したがって、両者の教義の根本は共通しています。
しかし、信仰する唯一神については異なる見解があります。キリスト教ではイエス・キリストが神とされ、イスラム教ではムハンマドが伝える神アッラーが信仰されています。この違いが宗教間の対立の原因の一つとなっています。
ユダヤ教からの派生とは、旧約聖書を新約聖書やコーランとして書き換えたことを指し、これが宗教間の対立の根源とも考えられます。神がアダムとイブを創造し、そこから人類が誕生したという考えは共通していますが、進化論を信じる人々には違和感があるかもしれません。
事例:クリスチャンである私の妻は、「ダーウィンの進化論」は受け入れがたいと考えています。
要点:キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生し、共通の教義を持ちながらも、神の解釈や教典の違いが宗教間の対立を生んでいます。
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社名BAHTERAとバッテラ寿司・ノアの方舟Bahtera Nuhの語源
鯖の押し寿司バッテラの語源は、ポルトガル語で小舟を意味するbateiraです。ノアの方舟はインドネシア語でBahteraNuhとなり、大きめの船をBahteraと呼びます。社名BAHTERAは、バッテラ(bateira)とBahter…
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インドネシアで宗教を持つことが義務の理由と、日本人の無宗教に対する驚き
インドネシアでは、イスラム教、カトリック、プロテスタント(クリスチャン)、ヒンドゥ教、仏教のいずれかを信仰することが義務付けられています。KTP(住民登録証)にも宗教が記載されており、宗教は生活の重要な一部です。
インドネシアの人々は、日本人が無宗教であることを知ると、驚きとともに必ずこう尋ねます。
これは「この世で何をすれば地獄ではなく天国に行けるのかを知らないのは不安ではないか?」という意味です。キリスト教徒やイスラム教徒は、死後の地獄行きを避けることができれば、死への不安が和らぐと考えます。
イスラム教徒の友人によれば、天国に行くための最も簡単な方法は、唯一神であるアッラーを信じることです。キリスト教でも同様で、クリスチャンである私の妻によれば、イエス・キリストを信じることで天国に行けます。
天国にもランクがあり、行いが悪ければ「監獄のような天国」に行き、良い行いをすれば「最上の天国」に行けるとされています。天国でも格差が存在するのです。
自殺は最も良くない行為で、自殺すると地獄行きが決定し、地獄では終わりのない拷問が待っています。クリスチャンはこのため、基本的に自殺を避けます。日本人の自殺が多いのは無宗教が原因で、地獄行きが分かっていれば自殺しないはずだという妻の意見にも一理あります。
インドネシアのクリスチャン文化と悪魔祓い|信仰と精神の境界線を考える
インドネシアのクリスチャンの教会では、神と悪魔との対話が日常的なものです。日本では、誰もいないところで声が聞こえる人には精神科を勧めますが、インドネシアではそれが普通の光景とされています。無神論者の私には見えない何かに対して話しかけたり、笑ったり、涙を流したりすることが、彼らにとっては自然なことです。
- クリスチャンから、インドネシアでは神と悪魔との対話は日常的なものと言われた。
- 日本では精神科を勧めると言ったら、IT用語で咎められた。
私の義妹はドイツ留学から戻り、インドネシアで公務員研究員として働いています。彼女は繊細な心の持ち主で、ある事件をきっかけに心が傷つき、意味不明なことをつぶやくようになりました。彼女は以前、悪魔に憑りつかれたことがあり、複数の教会を回って祈祷師に悪魔祓いをしてもらいました。祈祷師の指示で、実家の開かずの部屋にあった鏡台を破壊し、クリスの模型を焼却したこともあります。
今回も義妹が異常な言動を始めたため、大規模な外出制限の中、祈祷師を自宅に呼びました。幸い、今回は軽傷で、普通の会話ができるまで回復しました。私は異教徒としてクリスチャンの信仰を尊重しますが、巻き込まれるのは避けたいと考えています。祈祷師の話を聞いていると、「イエスキリストを信じるか」などと問いかけられ、予想はしていたものの、うんざりしました。
- 祈祷師が来てお祈りをし、「天国と地獄を見た」と言った。
- 宗教者との会話で価値観が揺さぶられる。
彼らの話の要点は、悪魔は心の中に潜んでおり、憎しみの感情が悪魔を呼び起こすということです。だから人を憎んではいけない、義妹がおかしな言動をしても怒ってはいけない、我慢が大切だと言われました。しかし、正直なところ「我慢するのは俺だけかよ」という気持ちです。
事例:義妹が悪魔祓いを受けた際、猿やトカゲ、ジャワの婆などの悪魔を吐き出させ、実家で鏡台を破壊し、クリスの模型を焼却しました。
要点:悪魔は心の中に潜んでおり、憎しみが悪魔を呼び起こすため、人を憎まず我慢することが大切とされています。
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インドネシアのクリスチャン悪魔祓い体験と文化的背景
インドネシアのクリスチャン悪魔祓いでは、サル、龍、トラ、トカゲ、おばあさんなど複数のサタンが現れることがあります。祖先由来の因縁がある場合、たまねぎの皮をむくように一個ずつサタンを追い出す長期対応が必要です。温和な教会では足りず、悪魔…
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仏教の三力加持とキリスト教の悪魔祓いに見る信仰の違いと価値観の衝突
仏教には三力加持という教えがあり、困難を乗り越えるためには自分の努力、周囲の助け、そして仏様の力の3つが必要とされています。しかし、悪魔に憑りつかれる義妹の状況を見ていると、本人の努力が足りないように感じることがあります。そのような中で祈祷師から「お前が我慢しろ」と言われると、正直なところ複雑な気持ちになります。
人間の体が神によって創られたと信じる人々と、進化の過程で生まれたと考える自分が議論しても意味がないかもしれません。初対面の祈祷師に「あなたの行動はすべて聖書に書いてある」と言われると、理解されていないと感じましたが、次回彼女が発症したら教会に連れて行くことを約束しました。
仏教の視点からはクリスチャンの考えが自己本位に見えることもありますが、彼らは見返りを求めずに悪魔祓いを行い、帰り際にはウイルス駆除のアルコールを散布してくれるなど、善意を持って行動しています。彼らが現世で徳を積むことで天国に帰りたいと願っていることは確かです。
事例:義妹が悪魔に憑りつかれるたびに、祈祷師が出張して悪魔祓いを行い、帰り際にアルコールを散布してくれます。
要点:仏教とキリスト教の信仰の違いは、困難を乗り越える方法や価値観に現れますが、どちらも善意に基づく行動を重視しています。
インドネシアの地震体験と宗教観の違い|日本人の無宗教感覚とのギャップとは?
ジャカルタで地震が発生し、28階の部屋でダイニングテーブル上のランプが大きく揺れました。私は右耳の三半規管に問題があるため、揺れをあまり感じませんでしたが、ランプの揺れを見て地震を実感しました。
日本人は地震に慣れていますが、インドネシア人はそうではなく、小さな地震でも恐怖を感じるようです。高層階に住んでいると、倒壊の不安が頭をよぎるのでしょう。アパートを借りる際には「地震で倒壊することはない」と言い聞かせますが、実際に揺れるとその安心感は薄れます。
地震の間、妻は目を閉じて神様に祈っていました。彼女は元カトリックでクリスチャンに改宗したばかりです。普段、宗教について深く考えない私には、彼女が何を祈っているのか分かりませんが、食事前や飛行機が揺れるとき、そして今回の地震のときに祈る姿を見ます。
オフィスやレストラン、駅にはイスラムのお祈り部屋があり、日系企業でも「お祈り」という言葉がインドネシア語化しています。それでも私は「宗教とは何か」「神の存在」について深く考えたことはありません。宗教や神様を敬う対象と考えていますが、妻の言葉からは神様が「依存してもいい対象」と聞こえ、この感覚が理解できません。
日本に帰国すると神社に参拝しますが、心の中で「無事に過ごせてありがとうございます。また一年安全でありますように」と考える程度で、特にお願いごとをする感覚はありません。
他人の宗教は尊重しますが、毎週日曜日の教会での礼拝に時間を取られるのは損だと感じることもあります。寄付も結構な額になるし、神様許して。
しかし、今回の地震で揺れる28階のアパートで妻が祈る姿を見て、少し考えが変わりました。
- 祈ることで心が落ち着くのであれば、それは素晴らしいことです。
飛行機が苦手な妻は、気流で揺れると手のひらが汗びっしょりになるほど緊張します。そんなときに祈ることで気持ちを静めることができるのは、それだけで素晴らしいことだと思います。
私は軽い高所恐怖症と閉所恐怖症で、恐怖を感じたとき祈る対象がないため、じっと我慢するしかありませんが、信仰があれば祈ることで気持ちが救われるのかもしれません。
今後も特定の宗教に信奉する状況を想像しにくいですが、相手の信仰を尊重し敬う気持ちの大切さを、今回の地震で気づかされました。
事例:インドネシアではKTPに宗教を登録する必要があり、宗教があるのが普通です。インドネシアに来たばかりの頃、「私は共産主義者だから宗教がないんです」という冗談が通じないことに気づくまで半年かかりました。
要点:インドネシアでは宗教が生活の一部であり、地震の際に祈ることで心を落ち着けることができるという文化があります。日本人の無宗教感覚とは異なるこの宗教観を理解し、尊重することが大切です。
浄土真宗における供養の本当の意味とは|命の尊さに気づく前向きな法話
久しぶりに福岡の実家に帰省し、代々お世話になっているお坊さんから、仏教における供養の本当の意味について興味深い法話をいただきました。
一般的に供養とは死者の霊に供え物をして冥福を祈ることを指しますが、浄土真宗では来世ではなく、現世に生きる人を敬い、命を授かったことに感謝する行為です。


地球が誕生してから46億年、生命体が誕生してから38億年が経ち、私たちの命はこの長い歴史を経て受け継がれてきた非常に貴重で尊いものです。
しかし、現代の忙しい生活の中で、生命の尊さを考える余裕がなく、生きることが辛いと感じることもあります。
祥月命日は死者を弔う日というイメージがありますが、実際には現世で生きる人が命の尊さを考え、他人の命を敬う日とすることで、前向きで建設的な意味を持つことができます。
事例:祥月命日を通じて、亡くなった人の現世での振る舞いや言葉を思い出し、自分もこの世に生まれて良かったと考える機会とすることができます。
要点:浄土真宗における供養は、来世ではなく現世に生きる人々の命を敬い、感謝する行為です。
仏教とキリスト教における命の価値観と尊厳死の考え方の違いとは?
キリスト教では、神から与えられた役割を果たすために生まれ、死後は主の元に帰るという世界観があります。このため、現世を一生懸命生きるという仏教の発想とは異なるかもしれません。しかし、両宗教ともに安楽死には否定的で、尊厳死はやむを得ない場合に限るという点では一致しています。これは、命が仏教的には38億年の歴史を持つものであり、キリスト教的には神から与えられたものであるため、天寿を全うすることが正しいとされるからです。
日本の法律では、医師が患者の苦しみを和らげるために薬で命を絶つ安楽死は認められていませんが、延命治療を中止して自然死を待つ尊厳死は認められています。
宗教的にも、医師が患者の命を絶つことは天寿を全うする行為を否定する罪とされますが、延命治療を止めて自然に任せることは、消極的ながらも天寿を全うした結果と見なされ、許容されるのです。
事例:日本では、尊厳死が法律上認められており、延命治療を中止する選択が可能です。
要点:仏教とキリスト教は命の価値観に違いがあるものの、安楽死に対する否定的な姿勢と尊厳死に対する慎重な姿勢では共通しています。
インドネシア人クリスチャンとの対話から考える宗教観と命の意味
今回、実家への帰省の際に、鹿児島在住の嫁さんの友人であるクリスチャンのインドネシア人に会うため、鹿児島市内に3泊しました。鹿児島市内では、路面電車が市民の生活の足として利用され、街全体にレトロな雰囲気を演出しています。これが観光客を引きつける要因の一つとなっているのは間違いありません。
滞在中、水俣のホテルで刺身をたくさん食べた結果、アニサキスが原因と思われる胃痛に悩まされました。そんな中、クリスチャンである嫁さんの友人から興味深い話を聞きました。それは、人間の行いがすべて「命の手帳」に記載されており、現世での行動はその手帳通りに行われるというものです。
すべてがあらかじめ決まっているのであれば、事前に教えてもらえれば刺身を避けたのにと思いましたが、彼女はキリスト教的世界観を伝えたかったのだと思います。人間は神から何をなすべきかの教示を得ているということを示したかったのでしょう。
命に対する考え方は、仏教では生命の進化の結果として命が存在することを認識する演繹的な視点であり、クリスチャンの場合は、命を手帳の記載通りに全うすることで、神の教示を受けていると認識する帰納的な視点と言えるかもしれません。
事例:鹿児島市内の路面電車は、地元住人にとっては日常の一部ですが、観光客にとっては街の魅力を引き立てる要素となっています。
要点:宗教観によって命の意味の捉え方が異なり、仏教は演繹的、キリスト教は帰納的な視点を持つことがある。