多宗教国家インドネシアで考える悟りの境地に達するという仏教観

2018/11/03

ヒンドゥ教のサドゥー

仏教的価値観では、現世で努力と実践を繰り返すことによって涅槃寂静の境地に達し、煩悩から解脱し悩みがなくなる状態こそが悟りの境地と言えるのですが、これは簡単なことではないので、一般の人々にとっては死ぬ前に「いい人生だった」と感じられることが最終目標となるのだと考えます。

宗教における神様の概念の違い

うちの嫁さんがクリスチャンなので、教会や孤児院などでの奉仕活動についていくと、たまにおしゃべりで押し付けがましい牧師(pendeta)から、頼んでもいないのに説教食らうことがあります。

教会で神を信じろと懸命に熱弁されても、単に相手が自分の言葉を信じさせたいという承認欲求に感じられてしまい、承認欲求が強すぎるがため幸せ聞こえない言葉の薄っぺらさ。僕はいいからあなた自身が先に満たされろよ、みたいな違和感。

キリスト教やイスラム教などの一神教では、神は人間を作った永遠で最高の超越した存在であり、当然人は神になれるはずも無く会うこともできませんが、人間はそこに神は確かにいるということを感じとることはできるそうです。

うちの嫁さんの場合、神の存在を感じやすいのは深夜から早朝にかけての時間帯のようで、ブロモ山山頂からご来光を拝んだ際には神のお姿が見えたとまで言っておりましたが、このような絶対的な神の存在とは全く神の概念が異なる神道文化や仏教文化の混合の中で生きてきた日本人には違和感が強い。

日本の神道は、山や川など自然界のすべてに宿っている八百万(やおよろず)の神から霊的スピリットを感じ取り、パワーを吸収しようとする土着信仰であり、人間は死ぬと死後の世界である黄泉の国(よみのくに)に行き、八百万の神の一員になります。

インドネシアのジャワ

インドネシアのジャワの神秘信仰と日本の八百万の神

日本の神道は山や川など自然界のすべてに宿っている八百万の神から霊的スピリットを感じ取り、パワーを吸収しようとする土着信仰であり、ジャワのアニミズムkejawenも自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るという似たような信仰です。

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仏教にいたっては神の存在すらなく、死んだらみな仏になり(成仏)、生きている間にも「体と心と言葉」の三つを鍛えることで煩悩から解脱することで悟りの境地に達すれば即身成仏(そくしんじょうぶつ)できるとされています。

仏教では煩悩から解脱するために努力と実践が必要

宗教的に「幸せに生きる」という意味は、どの宗教でも煩悩から解脱し悩みがなくなる状態と言えると思いますが、そのために神にすがるのではなく、現世で努力と実践が必要だとされるのが、仏教の他の宗教との大きな違いであり、お寺で和尚さんが仏さまの教えを説くのが説法です。

神に祈り帰依することでご加護が得られ心が平安になるんだと説教されるのは、ジョクジャまで景色を楽しみながら12時間自分で運転した後で飛行機なら1時間で来れたのにと冷や水をかけられるようなもの。こっちは現世で試行錯誤してあわよくば涅槃寂静に到達できたらラッキーと考えている程度ですから。

悟りの境地とは世の中の仕組みがすべて理解できるようになることで一切の悩みがなくなった状態ですから、仏教で神に該当するの仏様(お釈迦様)とは、キリスト教のようにすがる対象ではなく、そうなろうと追求する対象と言えると考えます。

そして悟りの境地に達する、いわゆる解脱したときにはじめて理解できる世の中の仕組みというのが以下の3つになります。

  1. 世の中のものはすべて変化する(諸行無常 しょぎょうむじょう)
  2. 世の中のものはすべて関係しあっている(諸法無我 しょほうむが)
  3. 悟りの世界は穏やかである(涅槃寂静 ねはんじゃくじょう)

高校の日本史で習った平家物語は琵琶法師によって弾き語られた作者不明の物語ですが、お釈迦様が説法を行ったインドの祇園精舎の鐘の音から絶えず変化する世の中の無常を説いた仏教観を表しています。

  • 祗園精舎の鐘の声、⇒祇園精舎の鐘の音には、
    諸行無常の響きあり。⇒諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。

シャカ族の王子であったゴータマシッダールタのように、世俗で修行を積むことで世の中は諸行無常・諸法無我であるということが理解できれば、涅槃寂静の悟り境地に達したあとに次にやるべきことは、自分一人だけ悩みがなくなって満足するのではなく、他人も苦しみから救ってあげることになります。

チベットでは生身のまま悟りの境地に達する修行の結果、即身仏のミイラとして発見されることがあるようですが、自分のような一般人レベルでは死ぬ前に

  • 人生いろいろあったけど結構満足できたなあ

と思えた瞬間があれば、それが悟りの境地とに達したと言えるのかも知れません。