多様性の中の統一を国是とするインドネシアから観た東京オリンピック

2021/08/03

インドネシアのバリ島

基本的には『多様性』という言葉はこれまで少数派として不利益を被ってきた人々に対して認めるべきものであるにも関わらず、一時の感情のもつれよってこれが拡大解釈され屁理屈となり、相手の言論を封じ込むための手段として使われる危険があります。

インドネシアの社会制限下での金メダル獲得ニュース

2021年のコロナ禍下のインドネシアでは、政府による社会活動制限が何度も延長させたことで、弊社も客先訪問ができない状況が続き、在宅勤務が増えたことで必然的にVPN通したオリンピック観戦三昧になりました。

東京オリンピックでは、女子49kg級重量挙げでウィンディ・アイサー(Windy Cantika Aisah)選手が銅メダル、男子61キロ級エコ・ユリ・イラワン(Eko Yuli Irawan)選手が銀メダル、男子73キロ級ラハマット エルウィン・アブドゥッラー(Rahmat Erwin Abdullah)選手が銅メダルと、インドネシアの重量挙げ選手が大活躍したのは記憶に新しいところですが、考えてみるとインドネシア人は民族的に骨格が頑丈で体幹が強い人が多いような気がします。

そしてバトミントン女子ペアのグレイシャ・ポリイ(Greysia Polii)/アプリヤニ・ラハユ(Apriyani Rahayu)組が金メダルを獲得し、オリンピックにさほど関心のないインドネシア人の間でも、国技とも言えるバトミントンでの快挙は、大きな話題となりました。

東京オリンピックの開催は、コロナ禍の中でなかば押し切られた感もあり、開催国である日本だけでなく海外からも賛否両論がありましたが、社会活動制限下で沈みがちなインドネシア国民の気分をスカッとさせた金メダル獲得のニュースを見られただけでも、インドネシアにとって開催された意義があったものと嬉しく思いました。

多様性を認め合うことの難しさ

東京オリンピックが無観客での開催が決定した後でも、強欲なIOC会長に対する嫌悪感も重なって、世論調査では過半数以上が開催に反対、SNS上では数字以上に反対派が多く、「オリンピック開催賛成」とか言おうものなら、袋叩きにでも逢いそうな空気すらありました。

ところが実際に始まってみると柔道、卓球、ソフトボール、フェンシングなど日本の金メダルラッシュに沸き、いつの間にか世論も「やって良かった」という空気に変わり、逆に反対派に対して「せっかく盛り上がっているから白けるようなことを言うな」という雰囲気さえ出たものと記憶しています。

東京オリンピック開催に反対(もしくは延期)という主張は、「利権にまみれ商業主義化したオリンピック自体を廃止しろ!」というステレオタイプな反対意見ではなく、「これからデルタ株が蔓延し大変な惨事が予測されるときにオリンピックに金かけるくらいならコロナ対策をやれ」という、時勢を見据えた現実的な意見が大勢だったかと思います。

オリンピックの開催の是非に関する議論の場が荒れるのは、自分と相反する考えを持つ側の人間の意見を封じ込めようとしたり、その人の人間性自体を批判(誹謗中傷)し始めた時であり、「多様性の中の統一」を国是とするインドネシアで暮らしていながら、改めて言論の自由、表現の自由という多様性を尊重し合うことは口で言うほど簡単ではないと感じました。

少数民族やLGBT(性的少数派)を差別しないことが多様性を認めることであるということに、今では異論を挟む人はほとんどいないでしょうが、意見の対立する人同士が議論する際に、どこまでが言うのが許容範囲で、何を言ったら一線を超えて多様性を否定していると捉えられるのかは難しい判断になります。

ただ基本的には多様性という言葉は『いままで少数派として不利益を被ってきた人々』に対して認めるもので、多様性という言葉を拡大解釈して「多様性を主張するのであれば、LGBTを差別する自分の意見も認めろ!」とか「今現在女性だと自認している俺が女風呂に入ることを拒むのは差別だ!」とかいうのはただの屁理屈ということになります。

最終的には賛成派の希望が通って開催されたわけで、逆に反対派にとっては望まない結果を強いられたわけであり、両者の妥協案がみつかるわけもないので、期間中にも反対し続けた人々の意見に対しては「決まったことをいつまでもグダグダ言うな」という反発ではなく、「気持ちはわかるけど、オリンピックは2週間半で終わるから我慢してくれ」と頭を下げるくらいで丁度バランスがとれたのではないかと思います。

新型コロナウィルスの蔓延を危惧し、貧困層の拡大が社会問題化することを心配し、一刻も早い収束を願う気持ちは誰もが同じです。

そうは言うものの人間は思考と感情のバランスを取りながら行動する生き物であり、一時の感情が行き過ぎると一線を越える言動をしたりされたりするのは仕方のない面もあり、僕のようにそのリスクを負いたくないと考える小心者は、公の場での政治的な発言を慎むという選択にならざるを得ないのです。