1998年暴動当時の在住日本人の情報収集手段

インドネシア時事問題

1998年当時のインドネシア在住日本人の情報収集環境【暴動渦中での懐かしい思い出】


1998年暴動当時の在住日本人の情報収集手段

2020年5月現在、コロナ禍中のインドネシア残留邦人、または日本へ一時退避しインドネシアへ復帰するタイミングを見計らう日本人にとって、最も有効な情報収集手段はTwitterではないかと思うのですが、1998年のインドネシアの歴史的転換期、Reformasi(改革)を掲げた学生による反スハルト政権デモがスディルマン通りを行進し、ジャカルタを中心に大規模な暴動が発生した当時の、市内要所の渋滞状況や騒乱の最新情報は「よろずインドネシア掲示板」上で交換されていました。

ちょうど22年前の昨日5月12日がジャカルタの暴動発生の日だったわけですが、当時の緊迫した状況は過去に何度か書いたことがあります。

下のツイートで計算間違いで23年前と書いてますが、正しくは22年前です(あほ)。

日本で報道される大手メディアによるニュースは、現地の刺激的な情報ばかりを切り取って視聴者の注目を引こうとするため実情を捉えていないのではないかという指摘は、昨年5月の大統領選挙の最終結果に対するジャカルタでの抗議デモと暴動に関する報道姿勢に対してもなされたことであり、暴動発生当時も現地の事情が一番分かったのが「よろずインドネシア掲示板」だったという評価が多かったのは事実です。

当時の僕は末席ながら有志の団体である「よろず編集部」に属しており、メンバーの専門分野を生かした独自コンテンツの充実という編集部の方針の中で「インターネットプロバイダー事情」や「よろずイエローページ」の作成をしたり、短期間ながら本掲示板のシスオペを担当しました。

現在Twitterを通してオフ会やオンライン飲み会などが開催されるように、当時は奇数月の第二金曜日に「よろず交流会」というオフ会が開催されることが掲示板上に告知され、ミッドプラザの酒菜の大広間で、一癖も二癖もある老若男女入り乱れた酔っ払いの地獄絵図が繰り広げられていたものと記憶しています。

その後、本掲示板はバリ島掲示板、医療掲示板、ビジネス掲示板、宗教掲示板とテーマによって細分化されていき、僕自身は2001年にバリ島に引っ越した後には、よろずバリ島メンバーとして、傍観者的な立ち位置から関与させてもらいました。

ちなみに当時のインターネットへの接続は、RadnetやCBNnetなどのローカルプロバイダと契約し、自宅のアナログモデムで「ピーヒョロヒョロヒョロー」という音を発しながらTelkomの電話回線を通じてダイアルアップ接続するという貧弱なもので、PC画面の下のタスクバー右の「接続のプロパティ」に表示される通信速度が14.4KbpsならまあOK、たまに28.8Kbpsと表示されると今日はネットの調子がいいなあというレベルで、現在の数Mbpsが当たり前というネット環境とは桁が2つか3つ違います。

暴動渦中での懐かしい思い出

暴動が発生してから自宅があったクニンガンまで命からがら逃げ帰ったのは事実ですが、緊迫した状況の中にあっても、実はそれなりに楽しい思い出もありました。

1998年5月12日は朝からスミットマスビルの某邦銀のシステム部で作業をしていたのですが、お昼前頃には窓の下にあちこちから煙が立ち上るのが見えるようになり、銀行が半日でクローズされたことにより、帰り支度をして外に出てはみたものの、ビルの正面ゲートは閉じられており、スディルマン通りには既に学生デモや警察車両が行きかっている状態でした。

これではとても敷地の外に出られるはずもなく、鉄柵の内側から騒然としたスディルマン通りを不安げに眺めるオフィスワーカーの集団に交じって、会社からの迎えの車を待っていましたが、迎えに来るといってもこんな状況では何時間待つか分からないという絶望的な気分でした。

そんなときたまたま隣に立っていたのが、いつもの顔なじみの日本食レストランの従業員の女の子であり、彼女も同じように不安におびえながら恨めしそうに鉄柵の外を眺めていました。

日本食レストランのフロアで圧倒的存在感を放つ一際目立つ色白で高身長、芸能人顔負けの美貌のスンダ人のL子とは、普段は注文とお勘定の形式的な会話を交わすだけの仲だったのですが、暴動下という極めて特殊な環境の中にたまたま居合わせたということで、何か運命共同体的なものを感じ、お互いの不運を嘆きながらも、自然に気持ちの繋がりが出来上がったように思います。

そのあと僕は会社から迎えに来てもらった車に乗って、交差点に集まっていた群衆やスーパーからの略奪集団を避けながら、5時間ほどかけてクニンガンまで何とか帰宅できたのですが、その後数日間は政府から外出禁止令が発令されてしまい、「あの後L子は無事に帰宅できただろうか」などと考えながらも、客先であるスミットマスに復帰出来たのは一週間後くらいです。

久々にいつもの日本食レストランに昼飯を食べに行くと、既に職場復帰していたL子と目が合った瞬間、お互いに「あー」と声が出ましたが、ランチタイムの最も多忙な勤務時間中に長話するわけにもいかず、お勘定を済ませた帰り際にフロアマネージャーの目を盗んで、こっそり名刺を渡した記憶があります。

交際が始まってから、どこに行くにも周囲の目が僕の隣を歩くL子に向けられるのがはっきりと感じられ、カフェでL子がトイレに行っている間に店員の兄ちゃんが寄ってきて「誰だあの子は?どういう関係なんだ?」と聞かれたことは2度や3度ではありません。

そのL子との交際は数か月で破局を迎えることになったわけですが、インドネシアの悲劇的な史実として記憶されるあの暴動は、僕にとってはアジアの躍動感を感じる刺激的な体験であったと同時に、映画のワンシーンのような恋愛をした事件としても記憶されており、今となっては懐かしい思い出です。





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