インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語

2019/05/25

ジャカルタの警察

9月30日事件後の共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという大義名分による暴動、スハルト体制終焉に事変の再現を狙い中華系インドネシア人をターゲットとした扇動による暴動、今回の暴動では同じ手法での扇動が民主主義国家インドネシアでは通用しないことが証明されました。

スハルト大統領

インドネシアの歴史

「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。

続きを見る

暴動の定義とは

先月4月17日にインドネシア大統領選挙の投票が全国の投票所TPS(Tempat Pemungutan Suara)で行われた後、約1ヶ月間に500人以上の死者を出す過酷な開票作業が続けられてきましたが、調査会社(Libang Kompas, Indo Barometer, LSI Denny JA, Median, Kedai Kopi)のクイックカウント(出口調査に基づく選挙速報)結果からもインドネシア最大の穏健派イスラム組織NU(Nahdlatul 'Ulama)が支持するジョコウィ現大統領は、中部ジャワから東ジャワで票を伸ばし、急進派FPI(Front Pembela Islam)が支持するプラボウォ氏は、イスラム色が強い西ジャワからスマトラ島で票を伸ばすことは予想されていました。

※2021年8月追記
政府は2020年12月にFPIの強制解散させ活動全般を禁止し、中央ジャカルタ・プタンブランにある本部を閉鎖。インターネット上の発信なども含め、徹底して取り締まる方針を発表しました。

そして今週5月21日に総選挙委員会KPU(Komisi Pemilihan Umum)は大統領選挙の最終結果として、ジョコウィ氏55.5%、プラボウォ氏44.5%でジョコウィ氏の再選を公表しました。

プラボウォ氏陣営側は今回の開票作業にて不正が行われていると主張し、KPUの集計結果を受け入れることを拒否する姿勢を示しており、開票結果公表の翌日22日にプラボウォ氏支持者が中央ジャカルタのサリナデパート付近で抗議デモを行い、同時にTanah Abang地区、Slipi地区、Palmerah地区などで民衆(Massa)または暴徒(Perusuh)と治安部隊(Aparat Keamanan)が衝突し、巻き添えを食った一般民間人も含めて8名の死者が出ています。

この民衆(暴徒)が政府側の人間なのか、対立陣営側の人間なのか、それとも第三者側の人間なのかは不明ですが、TwitterやInstagramなどSNSを通して治安部隊による発砲、殴る蹴るの扇動的な出所不明の暴力動画が拡散されたことで、フェイクニュースの拡散を防止する目的で、TelkomselやProxlなどの携帯キャリアーの電波からSNSやWhatsAppなどへの動画、画像のアップロードが制限され、Facebookには全く繋がらなくなりました。本日25日お昼過ぎにこの制限は解除されたようでFacebookにも繋がるようになりました。

ところでインドネシア語で抗議デモと治安部隊との「衝突」はBentrokan、「暴動」はKerusuhanといい、何をもって暴動と定義するかをうちの嫁はんに聞いてみると「車をひっくり返したり火をつけたり勝手に騒ぎを起こす(rame-rame sendiri)」のが暴動で、今回の出来事は集団的な略奪(kerampokan)などは発生しなかったとはいえ、一部勢力が扇動して投石したり車に火をつけたりしたので明らかに暴動だということです。

昨日24日夜にプラボウォ氏陣営は憲法裁判所(Mahkamah Konstitusi)に、今回の開票作業にて各地から寄せられた開票結果が操作され、プラボウォ氏の得票が意図的に少なくして集計用のコンピューターに入力されたなど、組織的で大規模な不正があったと異議申し立てを行い受理されましたので、これから大統領選挙の公正性についての審査が行われ、来月6月28日までにその有効性の有無が法的に判断されます。

1998年5月のジャカルタ暴動との違い

今回発生した暴動も、1998年5月のジャカルタ暴動(Kerusuhan Mei 1998)と同じように、社会を混乱に陥らせようという明確な意図を持った特定の集団に扇動されたものである可能性も否定できないようですが、通貨危機による物価上昇で庶民の不満が鬱積したところで、貧富の差に対する嫉妬が怒りとなって中華系インドネシア人に向かうよう扇動された結果、略奪や暴行、焼き討ちによって1,000人以上の犠牲者が出た前回の暴動とは規模的に比較にもなりません。

32年間続いていたスハルト政権では、KKN(Korupsi汚職・Kolusi談合・Nepotisme縁故主義)が蔓延し、1997年7月のタイ通貨危機に連鎖して発生したインドネシア通貨危機(krisis moneter 略してクリスモン)により、燃料(BBM Bahan Bakar Minyak)価格が急騰し、タクシーに乗るたびに初乗り料金が値上がりしているんじゃないかと錯覚するほどでした。

米(Beras)、砂糖(Gula pasir)、油とバター(Minyak goreng dan mentega)、牛肉・鶏肉(Daging sapi dan ayam)、卵(Telur ayam)、牛乳(Susu)、とうもろこし(Jagung)、灯油(Minyak tanah)、塩(Garam beryodium)、これら9つの生活必需品Sembako(Sembilan Bahan Pokok)の値上がりに一般庶民の不満が募り、スハルトファミリーだけが私腹を増やしているというような、独裁国家ではご法度だった為政者への批判が公然と聞かれるようになり、連日学生を中心としたデモが国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)前に集結し、政治の不安定と経済混乱からのReformasi(レフォルマシ 改革)を訴える行動がヒートアップしていく中で、特定の集団によって扇動された疑いが強いあの暴動が引き起こされました。

5月13日、当時スミットマスビルのスディルマン通り側が封鎖されてしまったので、裏のSenopati通りに出て車に乗るも、前方のMampang交差点に群集が見えただならぬ気配だったので即Uターン、大型スーパーGOROから略奪したばかりの戦利品をカートで運ぶ餓鬼の群れを尻目に、ところどころに集結している群集を避けながら徘徊すること4時間あまり、平和的に行進する学生のデモにまぎれてスディルマン通りを北上し、装甲車が行き交う戦場映画さながらの状況の中で無事Kuninganの自宅に戻りました。

その後数日間は政府による外出禁止令が出され、解除されるとすぐにオジェック(バイクタクシー)をチャーターし、最も被害が大きいとされたコタ地区に向かい、ガジャマダ通りからグロドック周辺の写真を撮って回りましたが、大通り沿いの建物のガラスは投石でことごとく割られ、中華系銀行として標的となったBCA銀行のATMは破壊され、ハーリー川(Batang Hari)にバスが突落とされていました。

そしてそのとき撮影していたカメラは、2週間前にグロドックのカメラ屋で買ったばかりのものでしたが、そのグロドックは建物自体が既に焼き討ちで見るも無残な状態でした。

インドネシア

インドネシアの歴代大統領から見る現代政治史

初代大統領スカルノは1965年の9月30日事件と3月11日事変後にスハルトに政権を委譲。1998年の暴動による社会混乱を機に副大統領のハビビが大統領に昇格。1999年の自由な政党活動の下での総選挙では闘争民主党が第一党となりましたが大統領指名選挙でワヒド大統領が誕生しました。

続きを見る

民主主義国家となったインドネシアで昔のような扇動は通用しない

スハルト政権退陣後のインドネシアの流行語は、Reformasi(革命)、その後にkrisis moneter(金融危機)、そして国が傾きかけたときに自然発生した3つ目の流行語がCinta Rupia(ルピアを愛そう)という、素直に国民感情を代弁する秀逸なものばかりだったと思います。

今回の暴動では、中華系インドネシア人をターゲットとした略奪などは起きていないようですが、近年のインドネシアはインフレ率も抑えられ、国民の所得水準も上がり、民主主義の下で表現の自由や知る権利が認められており、国民の不満が鬱積されにくい環境にあり、特定の人種をターゲットとした攻撃を扇動できるような未熟な国家ではなくなったということかもしれません。

当時は情報統制された独裁政治の下で、政府にコントロールされたTVや新聞などの既存メディアの情報に民衆が影響されやすい状況だったのに対して、民主主義国家としての経験を積んだ現在では、インターネットで政治経済情勢や過去の歴史についての情報を取捨選択できる環境にあり、20年前とは環境も国民の知的レベルも全く異なるため、もう当時と同じ規模の暴動を扇動することは難しいと思います。

インドネシアの初代大統領スカルノ政権後期におけるインドネシア共産党PKI(Partai Komunis Indonesia)は、党員500万人、共産主義青年団300万人、支持者1000万人という巨大な勢力に成長しており、インドネシア陸軍と対立するスカルノ政権を支えていました。

1965年9月30日、左派の大統領親衛隊が陸軍トップ6人を殺害し、革命評議会によるクーデターを企てましたが、これを戦略予備軍司令官スハルト少将が制圧すると、共産党勢力の一掃をはかるための民間人を扇動した「赤狩り」が行なわれ、100万人規模の犠牲者が出ました。

この1965年の事件が、共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという名目で行われた政権奪取と政権基盤の安定を目的としたデマゴギーの結果としての暴動であるとすれば、1998年5月の暴動はスハルト独裁体制の終焉に乗じて1965年の事変の再現を狙った中華系インドネシア人をスケープゴートとした特定の集団が扇動した暴動、そして今回の暴動は同じ手法で社会を扇動しようとしたものの、民主主義国家となったインドネシアでは通用しなくなったことが証明された暴動なのではないでしょうか。

歴史の過渡期には秀逸な流行語が登場する

インドネシアの革命と言えば初代大統領スカルノ氏から第二代スハルト氏に変わった1965年の9月30日事件が有名ですが、直近では1998年のBBM値上げをきっかけに激化した学生運動とそれに乗っかった暴動でスハルト政権が退陣したReformasi(革命)です。

この時期に暴動に巻き込まれたり、軍や警察の発砲によって犠牲者があったことは悲しい出来事として記憶に残り続けると思いますが、その現場に敢えて居合わせたいという観光客気分の抜けない外国人である自分には事の重大さは理解できませんでした。

日本でPUFFYの「アジアの純真」を聞きながら「どこかアジアで仕事してみたい」というワクワク感を持ってやってきた自分にとってみれば、不謹慎を承知で言わせてもらうと、スディルマンを行き交う装甲車を見ても、投石でボコボコになった商店街を見ても「アジアってすげー」と気分が高揚するだけ。

客先の銀行からクニンガンまで暴徒を避けながら逃げた時も、暴動の翌日にオジェックをチャーターしてコタの投石と略奪状況を見物に行った時も、アトマジャヤ大学前のデモ見物中 警察が突然発砲しだしてノートPCで頭かくしてビルの裏に逃げた時も、不謹慎承知で実際楽しくて仕方なかった。

今だったら怖くて国外脱出しているかもしれなません。

インドネシアの流行語は素直に国民感情を代弁する秀逸なものばかりだと思います。Reformasi(革命)の後にKrisis moneter(金融危機)がやってきて、国が傾きかけたときに自然発生した3つ目の流行語がCinta Rupia(ルピアを愛そう)です。

革命は静かにやってきてある時点からヒートアップして急展開します。そして革命のエネルギーは最終的に国への愛情に向かうもの、これが先の日本の国会議事堂前での「革命」行動の映像に感じる違和感の理由なのかもしれません。