インドネシア生活

反共産主義の象徴である「パンチャシラ・サクティ」記念碑と「共産党の裏切り」博物館【政治のパワーバランスが変わった9月30日事件】


スハルト政権下のインドネシアで過激な政治思想を持ったお姉さんと付き合う

1997年10月にインドネシアに来たばかりの頃、この国で生きていくためにインドネシア語を一刻も早く上達したいという一心で、言葉は悪いですが誰でも良いのでインドネシア人の彼女が欲しくて、最初に連れて行ってもらったBlok Mのカラオケ屋で自分に付いたお姉さんに、下手くそな英語とインドネシア語を駆使して何とかオフで会う約束を取りつけ、紙ナプキンに書かれたインクの滲んだ住所を頼りにPondok Gedeの彼女の自宅で再会することができました。

それから毎週日曜日に、僕が会社や客先でインドネシア語会話で分からないことを1週間分メモしたものを、今はなきサリナのマクドナルドで添削して貰ってお礼に10万ルピア払ってから、Plaza Indonesiaや当時の定番デートスポットだったスナヤンの遊園地Taman Ria(今はない)でデートを重ねていましたが、彼女はとにかく感情の起伏が大きく負けず嫌いで、やたら政治的な話を振ってきて僕が答えられないと、あなたはstupidだと馬鹿にする始末でした。

当時の日本の橋本総理が彼女の出身地であるスラウェシ島に資金援助してくれてありがとう(知るかよ、そんなの)と感謝するかと思えば、日本に支配された3年半はオランダの350年間の植民地支配よりも苛烈だったと批判してくるし、一番印象的だったのは毛沢東(Mao Zedong)思想はインドネシアにとって理想的なイデオロギーであり、インドネシア共産党PKI(Partai Komunis Indonesia)は素晴らしい政党だった(1966年の「3月11日政変」後に解散させられた)という社会主義(≒共産主義)に対する賛美でした。

1997年当時はまだスハルト政権末期、共産主義を賛美しようものなら日本の公安調査庁に当たる国家情報調整庁(Badan Koordinasi Intelijen Negara)、通称インテル(Intel)に宗教侮辱罪(共産主義者は無神論者と見なされた)か国家シンボル侮辱罪(建国五原則のうち「唯一神への信仰」に反する)で逮捕されてもおかしくない時代ですが、PKIは1963年末の段階で自称250万人の党員を抱えるソ連共産党、中国共産党に次ぐ世界で三番目に大きな共産党であったことから考えても、彼女のように隠れキリシタン的に水面下で共産主義を信奉するインドネシア人も相当数いたものと考えられます。

9月30日事件の現場にある「パンチャシラ・サクティ」記念碑

「パンチャシラ・サクティ」記念碑

彼女が僕にインドネシア語を教える中で、社会科見学の必要性を感じたのかどうかは知りませんが、Pondok Gedeの彼女の自宅から遠くない場所にある「パンチャシラ・サクティ」記念碑(Monumen Pancasila Sakti)に連れて行ってもらったことがあり、当時の僕は何の予備知識もなかったのですが、ここにはインドネシア現代史を揺るがす大事件「9月30日事件」で6人の将校の遺体が発見された古井戸Lubang Buayaとその古井戸を見下ろすように建立された記念碑、そして「共産党の裏切り」博物館(Museum Penghianatan PKI)などがあり、インドネシアの小学生、中学生、高校生などが社会科見学で訪れる場所でもあります。

1965年9月30日未明から10月1日にかけて、スカルノ大統領新鋭部隊配下の決起部隊が自らを革命評議会と名乗って、大統領を排除する計画を立てていたと疑われる6人の将校を拉致して殺害し、Lubang Buayaに遺棄したクーデーター未遂事件が発生し、これに対して戦略機動予備軍司令官スハルト少将がいち早く鎮圧にあたり事態を掌握し、事件はPKIによるクーデターであると解釈した上で、その後の共産党勢力の一掃作戦が展開されることになります。

この事件がPKI主導によるものであるというインドネシア政府の公式見解を形にしたものが、1973年に公開された「パンチャシラ・サクティ」記念碑や1992年に開館した「共産党の裏切り」博物館ですが、本当は単なる陸軍内の内紛だったという説もあれば、スカルノ大統領を失脚させるためのスハルト少将による陰謀説、インドネシアの共産化を恐れた欧米諸国による陰謀説などあり、彼女はスハルト少将による自作自演の陰謀であると信じて疑いませんでした。

深田祐介著「ガルーダ商人」の中にも記載がありますが、スカルノ大統領が事件の発生の報告を受けた後に、クーデター一味の司令部があるとされているハリム空軍基地に行ったことが、その後のスカルノ大統領の政治生命にかかわる重大な疑惑を招くことになり、インドネシア国内政治のパワーバランスはスハルト少将に傾いていきます。

インドネシア独立以降の政治のパワーバランスの変遷が良く解る倉沢愛子著「インドネシア大虐殺」

PKI信奉者である彼女が、何故に反共産主義的な博物館に僕を連れていったのかの答えを探すために、今日「共産党の裏切り」博物館を23年ぶりに再訪してきましたが、館内は終始一貫してPKIの非道な行為のジオラマばかりで、日本人である僕がPKIに対して同情の念を感じるような展示物、そして反PKIと反スカルノ大統領デモのの激化によりスハルト氏に権力移譲された1966年の「3月11日政変」の前後に、インドネシア全土で繰り広げられた「共産主義者狩り」に関する展示は一つも見つけられませんでした。

インドネシアの独立を達成した後、スカルノ大統領は異なる文化、民族、言語、宗教に属する人々をインドネシアという国家の一員であるという意識を根付かせ一つにまとめていくために、欧米諸国という外敵を作り、ソ連や中国など共産主義国家と繋がりを持つPKIとの関係を深めていったものの、「9月30日事件」で国内の反共勢力とのパワーバランスが崩れ、「3月11日政変」後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。

インドネシア社会史が専門の研究者である倉沢愛子氏は、6月に出版されたばかりの著書「インドネシア大虐殺」の中で、カンボジアで起きたポル・ポトの虐殺にも匹敵する、50万人とも200万人とも言われる共産主義一掃のための大虐殺に対して、西側諸国からも社会主義国からも抗議の声が上がることはなく、黙殺されたまま日本はインドネシアに対して借款による経済援助を供与することにより、高度経済成長を享受してきたことに疑問を呈し、この大虐殺を簡単に忘れるべきではないという思いが本書の執筆の理由であると記しています。





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