ジャカルタで会える昔の日本人の足跡【平成から令和への変わり目にインドネシアで活躍された先達をお参り】

じゃがたらお春【国立公文書館】

今日は平成最後の日、明日から令和元年になります。
平成31年(2019年)は1月から4月まで、今年の3分の2に該当する5月から12月までが令和元年になりますが、昭和天皇の崩御が昭和64年(1989年)1月7日だったので平成は1月8日以降、つまり1年のほとんどが平成元年だったわけで、7日間しかない昭和64年生まれの人は、実はかなりのレアキャラだったことに気づきました。

小渕官房長官が「平成」と書かれた色紙を掲げたときは、今まで「昭和」という言葉を当たり前のように使っていたのに、明日から突然「平成」に変わると言われても困る、「へーせー」とか随分気の抜けた言葉で格好悪い、という否定的な感情が日本中でが強かったように記憶しています。

当時は昭和が60年以上も続いたおかげで、ほとんどの人が「元号が変わる」という事実をイマイチ理解できなかったからだと思いますが、今回はさすがに2回目、しかも1ヶ月の猶予付きということで、元号が変わるという事実に対する反応も「令和」という新元号に対する評価も肯定的な意見が多くてなによりでした。

僕がインドネシアに来たのは平成9年(1997年)で、そのまま平成の3分の2以上をインドネシアで過ごしたわけですが、「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」の「じゃがたら文」で有名な「じゃがたらお春」がオランダ領東インドのバタビア(ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に来たのが寛永2年(1625年)です。

1602年に江戸幕府が創設され、3代将軍である徳川家光の時代に徹底された鎖国令のために、イタリア人ハーフのキリスト教徒であるお春は、バタビアに追放されてきました。

「じゃがたら」というのは16世紀のJayakartaがなまってJacatraとして広まったもので、今の呼称Jakartaと綴られるようになったのは1945年のインドネシア独立後のことで、歴史的に見るとごく最近の話になるのですが、時代とともに変遷してきた昔の名前は、現在でも愛着をもって地名や店名として使われています。

  1. 14世紀はSunda Kelapa⇒今はAncol付近の港名
  2. 16世紀にはJayakarta⇒リーズナブルなJayakarta Hotel
    この時代のJayakartaがなまってJacatra(ジャカトラ)という言葉が広まって、インドネシア産のモノがじゃがとら芋、じゃがとら絹と呼ばれました。
  3. 17世紀から20世紀前半のオランダ統治時代はBatavia⇒ジャカルタの名所Cafe Batavia
  4. 1942年に旧日本軍がDjakartaに改名⇒Djakarta Theater XXIという系列映画館が有名

「じゃがたら文」から読み取れるお春さんのイメージは、日本に帰りたくて帰りたくて毎日泣いているかわいそうな人みたいな感じだったのですが、実はバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して三男四女を儲け、富を築いて大勢の使用人を使っていた結構な勝ち組だったようです。

記録として残っているインドネシアに渡った日本人の中での最古参であるお春さんの遺言状が、コタ地区の国立公文書館(Gedung Arsip Nasional RI)に保存されているそうなのですが、展示はされていませんでした。

ここに展示されているインドネシアの歴史上重要な公文書等のほとんどがジャワ語なので内容を理解するのは難しいのですが、オランダ東インド会社の総督の邸宅だったコロニアル様式の建物や中庭を歩くだけでも、歴史の重みを感じることができます。

じゃがたらお春さんの遺言状もここにArsip(アーカイブ)されているそうです。
広くて風通しのいい中庭で猫が休んでいました。
雨後のムシムシする暑さの中で日陰の石畳の上は気持ちよかろうに。



からゆきさん【日本人納骨堂】

1602年の東インド会社の進出を契機にオランダの植民地支配が300年以上続き、当時のオランダ領東インドには、19世紀の後半から20世紀前半までに多くの日本人経営の商店、トコ・ジャパン(日本人商店)があったようです。

日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書(青木澄夫著)

1900年に三井物産が日本企業第一号の出張所をスラバヤに開設する前の1897年には、メダン(Medan)に最初の日本人会が結成されるなど日本人社会があったわけですが、1909年にバタビア領事館が開設されるまでのオランダ領東インド在住日本人はシンガポールの管轄下でした。

先日「じゃかるた新聞」から購入した「日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書(青木澄夫著)」を読むと、100年以上前に行商人や売薬商、女衒(ぜげん)に騙され売り飛ばされて来た「からゆきさん」などが、バタビア周辺だけではなくインドネシアの各地に根を下ろして生活していたことに驚きます。

中央ジャカルタのプタンブラン公営墓地(TPU=Tempat Pemakaman Umum Petamburan)にある日本人納骨堂には、バタビアで商店を営んでいた日本人商人以外にも、多くの「からゆきさん」の遺骨が納められていると言われていますが、納骨堂の中は見られませんので詳細はわかりません。

ただ、望まないまま遠い異国に連れてこられて、日本に帰ること叶わず亡くなった「からゆきさん」の遺骨がここに納められているとしたら、100年以上経った現在までこのように綺麗に整備された納骨堂を提供し続けてくれているインドネシア(ジャカルタ)政府に感謝しかありません。

日本人納骨堂、右にOen Giok Khouwの美しいグリーンの霊廟が見える。
中華系移民プラナカンの子孫Oen Giok Khouwは19世紀末から20世紀初頭のバタビアの大地主。
整備の行き届いたツル性植物のトンネル

独立戦争に参戦した残留日本兵【カリバタ英雄墓地】

第二次大戦終戦後にインドネシアに残った日本人兵士がインドネシア人と共に、再進してきたオランダ軍・イギリス軍と戦ったのは、1945年8月17日のインドネシアが独立宣言をした後の話しです。

  • 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなる。
  • 1943年2月:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し日本の軍政下に入る。
  • 1945年8月15日:日本の終戦記念日=天皇陛下による玉音(ぎょくおん)放送で国民にポツダム宣言受諾を伝えた日
  • 1945年8月17日:インドネシアの独立記念日=インドネシアが独立を宣言
  • 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争
  • 1949年:名実共に独立。

約350年間続いたオランダによる植民地支配の後に、日本が3年半ほど統治している事実がある以上、時系列で見るとインドネシアの独立記念日1945年8月17日は「日本からインドネシアが独立した日」と言えますが、その後に再度植民地支配を狙って進軍してきたオランダ軍・イギリス軍とゲリラ戦の末に名実共に独立を勝ち取りました。

このような時代背景から、独立記念日にインドネシア中が「ムルデカ、ムルデカ(Merdeka 独立)」と勇ましく盛り上がる光景を見るたびに、これは「日本からの独立」というよりも、インドネシアの天然資源を収奪するために植民地化しようとする日本を含む「列強諸国による支配からの独立」というのが適当だと感じますが、ここカリバタ英雄墓地(Taman Kalibata Makam Pahlawan)に埋葬されている日本人残留兵の方々は、インドネシア人にとってだけではなく、我々のような後世の日本人にとっても英雄だと思います。

2015年4月に安倍総理も献花に訪れたカリバタ英雄墓地
独立戦争に参加した残留日本兵の方々も英雄です。
埋葬された年ごとに氏名が壁に彫られている。