スハルト政権時代には、インドネシアの国家イデオロギーが共産主義から資本主義へと大きく転換されました。この過程で、プリブミと中華系インドネシア人との間に分断が生じました。しかし、民主化と経済発展により、プリブミの心情が変化し、中華系への理不尽な嫉妬が減少していると考えられます。
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インドネシアの歴史年表と時代区分|王朝・植民地支配・独立・大統領政権の全体像
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この記事でわかること
- スハルト政権時代、インドネシアは共産主義から資本主義へと転換しました。
- プリブミと中華系インドネシア人の間に分断が生じ、緊張が高まりました。
- 1998年の暴動は中華系インドネシア人への嫉妬と不満が原因とされています。
- スハルト政権崩壊後、中華系の地位向上と民主化が進みました。
- 経済成長により、理不尽な嫉妬が減少し、社会の変化が見られます。
プリブミと中華系の緊張関係に見るインドネシア社会の分断と暴動の背景

プリブミ(PRIBUMI)とはインドネシア語で「大地の子」という意味で、主にマレー系インドネシア人を指します。インドネシアでは人口のわずか5%の中華系資本が経済の90%を独占していると言われています。私がインドネシアに来た1997年頃は、会社の技術スタッフや運転手から、中華系スタッフに対して「あいつはオラン・チナ(中国人)だから」という悪口を聞くことがたびたびありました。
当時はスハルト政権末期で、中華系に対する国民の嫉妬や不満をそらすために、屋外に漢字表記の看板を出すことを禁止するなどの抑制政策が行われていました。一般庶民からすれば、中華系の人々は政府から規制を受けているにもかかわらず、金持ちで偉そうにしているという屈折した感情があったのかもしれません。
私が住んでいたクニンガン地区のコス(下宿)のオーナー夫婦は中華系で、住人の大半も中華系でした。彼らは私に対して親切に接してくれ、ケーキの差し入れや誕生パーティーに招待してくれました。しかし、オフィスボーイに対する厳しい叱責を聞くたびに、インドネシアは中華系が経済的に支配する階級社会だと感じました。
1998年5月12日(または13日)にジャカルタで発生した大暴動は、中華系インドネシア人をスケープゴートとした略奪、破壊行為でした。私は好奇心からオジェック(バイクタクシー)をチャーターし、被害を受けたコタ方面を見学しました。ガジャマダ通りのビルのガラスが割れ、ハヤム・ウルック通りでは川にバスが突き落とされ、グロドックが焼け焦げて倒壊している惨状を目の当たりにしました。
ジャカルタの多くの店のシャッターには、「うちは中華系の店じゃないから襲わないでください」というメッセージとして「PRIBUMI(プリブミ)」と書かれていました。2020年のアメリカでのBLM(Black Lives Matter)の暴動のニュースで、「ここはシングルマザーが苦労して経営しているだから略奪しないで」と表記されている店を見たとき、ジャカルタでの光景を思い出しました。
この暴動は、長年鬱積したプリブミによる中華系インドネシア人に対する嫉妬と不満が暴発したものという意見もあれば、スハルト大統領の娘婿プラボゥオ氏による政権転覆を狙ったクーデターだという憶測もありました。30年以上続いたスハルト独裁政権の間、プリブミと中華系インドネシア人が分断される空気が漂っていたのは確かです。
1992年のバルセロナオリンピックでインドネシア初の金メダリストになったスシ・スサンティを描いた映画「Susi Susanti Love All」では、スシがインドネシア国籍証明書SBKRI(Surat Bukti Kewarganegaraan Indonesia)が取得できず苦悩するシーンがあります。当時のスハルト政権下での中華系インドネシア人に対する差別的待遇が垣間見れる印象的な場面でした。
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インドネシアの暴動と民主主義の成熟:歴史と現状
インドネシアでは、共産主義イデオロギーの脅威を理由に暴動が起きましたが、民主主義の成熟により同じ手法での扇動は難しくなっています。2019年の大統領選挙では、ジョコウィ大統領が再選され、プラボウォ支持者による抗議デモが発生しましたが…
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スハルト政権の反共路線と中華系インドネシア人の影の存在感

1965年の9月30日事件を境に、スカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト氏が事実上政治の実権を握った後に、インドネシアは完全に反共産路線に傾きました。スハルト政権の見解として、9月30日事件とはPKI(インドネシア共産党)が政権転覆のために、左派の大統領親衛隊をそそのかして引き起こしたクーデターであり、共産勢力に対する弾圧は社会治安の安定のために不可欠だったというものです。しかし、PKIは1963年末の段階で自称250万人の党員を抱えるソ連共産党、中国共産党に次ぐ世界で三番目に大きな共産党であったことから考えると、結果的にインドネシアの共産化が防がれたとも言えます。
インドネシア独立後、スカルノ大統領が共産主義に傾倒していったのは、ジャワ農村文化であるゴロンヨロン(相互扶助)や、伝統的合意形成方法であるムシャワラと全会一致のムファカット(Mufakat)の姿が、共産主義社会の理想と相性が良かったからだと思われます。しかし、インドネシアの国家イデオロギーは、スハルト氏によってユートピア社会(理想社会)志向から、真逆のリアリズム志向へと方向転換することになります。
スハルト大統領の国家イデオロギーとしては「インドネシア建国の父」と評されるスカルノ大統領の正当なる後継者であることをアピールするために、建国五原則であるパンチャシラを国民の愛国教育に利用し、独裁長期政権のための政治体制を築く一方で、西側諸国との関係を深めることで外資導入を促進し外国援助を取り付けるスタイルは「開発独裁」と言われました。
東西に長く連なる島々で構成される広い国土に分散される多民族の国民を一つにまとめるために、パンチャシラをうまく利用する一方で、スカルノ時代を超えるためには反共産主義の姿勢をアピールする必要がありました。開発独裁政権下では「多様性の中の統一」という言葉も虚しく、プリブミと中華系とを分断するような空気が出来上がり、中華系インドネシア人が政治の表舞台に出ることはありませんでした。
事例:当時、中華系インドネシア人スタッフの結婚式に招待され、指定されたコタ地区の式場の住所に到着するも、シャッターが半分開いた殺風景な商店みたいなところで、本当にここで場所は合っているのかと不安になっていたところ、半開きのシャッターの中に案内され二重扉を開けると、そこにはド派手な宮殿のような贅沢な式場が広がっていたという漫画のような経験をしたことがあります。このときにインドネシアの中華系インドネシア人の商売とは、人々の嫉妬や反発を受けないように表向きは地味を装い、裏でしっかり実利を取るものだと納得しました。
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インドネシア共産主義と9月30日事件の影響
9月30日事件はスカルノ大統領を支えた共産勢力のパワーバランスを崩しました。スハルト政権下でインドネシアは完全に反共産路線に傾きました。PKIはかつて世界で三番目に大きな共産党でした。
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中華系インドネシア人の地位向上と民主化がもたらした社会の変化
1998年にスハルト政権が暴動をきっかけに崩壊し、1999年に第三代大統領ワヒド(グスドゥール)政権の経済担当調整大臣としてKwik Kian Gie(郭建義)氏が選出されたとき、会社の同僚の中華系インドネシア人が閣僚の顔写真一覧ポスターを見せながら「この中でチャイニーズは誰か分かるかい?」と嬉しそうに聞いてきたことをよく覚えています。
民主化のプロセスが進む中で中華系インドネシア人の活動を抑制するような政策はなくなり、街には漢字表記の看板が見られるようになり、スハルト政権下で認められなかった儒教が、正式に国家が認める宗教に復活しています。
昔、バティックや雑貨の輸出会社をやっていたとき、中華系インドネシア人の店主と話をする際に、彼らがよく使っていた「orang kita(我々側の人間)」という言葉を聞くたびに、政治的な問題でどこか警戒しながら生きざるを得ないんだなあと若干気の毒に感じたものですが、2021年当時この言葉を聞く機会もほとんどなくなり、それだけインドネシアは民主化が進み経済成長の恩恵で人々の生活レベルが底上げされたことで、理不尽な嫉妬が減ったということであるならば喜ばしいことだと思います。