インドネシアの独立は、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配という屈辱の歴史の中で形成された民族主義の勝利であり、インドネシア人の心の奥底には自力で独立を勝ち取ったプライドがあります。
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インドネシアの歴史
「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。
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日本からの独立
本日8月17日(土)はインドネシアの74回目の独立記念日であり、公的機関や学校では記念式典が行われ、住宅街ではパン食い競争ならぬクルプック食い競争(Lomba Makan Kerupuk)で盛り上がり、スタバではドリンクが半額になります。
ところでインドネシアで仕事をしている人にとっては、一般常識の基本のキかもしれませんが
- インドネシアってどこの国から独立したのか?
この質問に対して、意外にもオランダから独立したという人がいると思えば、いや大日本帝国の軍政からの解放だという人もいれば、特定の国は重要ではなく帝国主義に基づく植民地支配からの独立だ、という人もいてなんかはっきりしないんですよね。
ちなみに自分は完全に日本からの独立だと思っていました。だって年表を見ると1945年8月17日当時は、直前までインドネシアは日本軍政下にあったので、独立記念日は日本からの独立であることは明らかじゃないですか。
- 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなる。
- 1943年2月:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し日本の軍政下に入る。
- 1945年8月12日:スカルノ・ハッタは大日本帝国陸軍の南方軍総司令官である寺内寿一からいつでも独立してよしの言質を得る。
- 1945年8月15日:日本の終戦記念日=天皇陛下による玉音(ぎょくおん)放送で国民にポツダム宣言受諾を伝えた日
- 1945年8月16日:ジャカルタ在勤武官の前田精海軍少将はスカルノとハッタを自らの公邸に受け入れ、インドネシア独立宣言の打ち合わせ。独立準備調査会によって独立宣言草案が起草された。
- 1945年8月17日:中央ジャカルタ東ペガンサアン通56番地(スカルノ邸)でインドネシア独立宣言書を読み上げる。
- 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争
- 1949年:名実共に独立。
ただですね、毎年8月に入り、街に赤白のインドネシア国旗Sang Merah Putihが目立つようになり、17日の政府やお役所、学校などで開催される記念行事に向けて準備が進められ、テレビでは独立を祝う愛国歌が流れたりするようになると、Merdeka!(独立!)という掛け声だけが勇ましい中で「日本から独立を勝ち取った」という視点がどうも見えないんです。
日本軍によるインドネシア進駐(他国の領土に進軍してとどまること)時の古い映像は流れますが、そこには「大日本帝国軍政からの独立バンザーイ」みたいな「インドネシア=被害者」と「日本=加害者」という対立構図が全く感じられないし、ましてや反日を煽るようなスローガンなんて聞いたことありません。
自分としては、別にインドネシアの独立が日本からでもオランダからでも植民地主義からでもなんでもいいのですが、74年前までの3年半の間、自分の先人達がインドネシアに進駐していた事実に対する若干の申し訳なさ、その子孫である自分が今その国で働かせてもらってありがとうという謙虚な気持ちは忘れないようにしています。
ただし過去の話をあることないことほじくり返して、倫理委員会にかけるかのように、日本は反省が足りないとか、国家レベルではなく民間レベルで賠償するべきだとかいう主張には嫌悪感が湧きますし、逆に大日本帝国の南方作戦は侵略戦争ではなくアジアの植民地主義からの解放こそが目的だったという一方的な主張にも辟易しています。
大日本帝国の侵略戦争によってインドネシアの民衆に及ぼした傷は正当化されるべきものではなく、国家レベルでの戦後賠償が当然必要であり、そのため1958年に日本=インドネシア平和条約が締結されています。
ちなみにその賠償貿易にからむ日本の商社とスカルノ政権との間で行われた商戦を描いたのが、インドネシアに関わる日本人にとってのバイブルとも言える深田祐介著「神鷲(ガルーダ)商人」であり、スカルノ大統領の第三夫人となったデヴィ夫人が利権争いの中で翻弄され、したたかに生き抜いていく物語です。
独立宣言文に西暦ではなく皇紀が使用された
インドネシアに来た当初、カラオケ屋のお姉さんから
- 日本に支配された3年半はオランダの350年間の植民地支配よりも苛烈だったのよ
とニコニコしながらサラッと言われたときは、笑ったほうがいいのか謝ったほうがいいのか対応に困ったことがあります。
インドネシアを含む東南アジアへの日本軍による南方作戦が侵略戦争だったのか、解放戦争だったのかと聞かれれば、石油資源確保のための侵略が、結果的にヨーロッパからの解放に繋がったということになると思います。
結果としてインドネシアの独立を促したことは日本軍政の正の遺産として評価されるべきだと思いますが、それをもってromusha(ロームシャ)というインドネシア語が出来上がったほどに苛烈だった強制労働や、日本語や皇紀という日本文化の強要などの負の遺産を帳消しにできると、日本人の口から言うことは控えるべきだと考えます。
侵略された国側の感情は侵略した側には想像できないものがあることも理解しますし、カラオケ屋のお姉さんから日本の支配が苛烈だったと言われれば反論するつもりは毛頭ございません。
ただ74年前のちょうどいまの時期、敗戦前後の大日本帝国陸軍と、スカルノとハッタという独立運動家を中心メンバーとした独立準備調査会の間で、インドネシアの独立を進める方向で一致していたことは確かな史実です。
そして1945年8月17日にスカルノ邸前で独立宣言書が読み上げられることになるのですが、10万ルピア紙幣の図柄にもなった独立宣言書の日付の年が、皇紀2605年を意味する「05」になっているのです。
P R O K L A M A S I
- Kami, bangsa Indonesia, dengan ini menyatakan kemerdekaan Indonesia.
Hal-hal yang mengenai pemindahan kekuasaan d.l.l., diselenggarakan dengan tjara saksama dan dalam tempo yang sesingkat-singkatnya.
Djakarta, hari 17 bulan 8 tahun 05
Atas nama bangsa Indonesia,
Soekarno/Hatta.宣言
- 我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
ジャカルタ、05年8月17日
インドネシア民族の名において
スカルノ / ハッタ
日本書紀の記述にある日本の初代天皇である神武天皇が即位した紀元前660年を元年として紀年した皇紀は、当時の日本軍政下のインドネシアにおいて、強要されていたものであるとはいえ、これがインドネシアの独立宣言書の日付に採用されていることは、当時の帝国陸軍と独立準備委員会の関係は、単純な支配者と被支配者という対立構図の中にあったわけではないことが想像できます。
そして1945年8月15日の日本の敗戦の2日後の17日にインドネシアの独立が宣言された後に、再度インドネシアへ再進してきたオランダ軍とイギリス軍と中心となって戦ったのが、大日本帝国陸軍が創設した郷土義勇軍(PETA=Pembela Tanah Air)であり、そこに敗戦後インドネシアに残った旧日本兵が参戦したことはインドネシアでも知られた史実です。
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ジャカルタで会える昔の日本人の足跡【じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵】
じゃがたらお春はバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して富を築いた勝ち組だったようです。女衒に騙され売り飛ばされて来たからゆきさんはインドネシアの各地に根を下ろして生活していました。敗戦後にインドネシアに残った日本人兵士がインドネシア人と共にオランダ軍・イギリス軍と戦いました。
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植民地支配からの独立
先日西ブカシの映画館で、劇場公開されたばかりの「Bumi Manusia(人間の大地)」を観てきました。
「人間の大地」は原作者のプラムディア(Pramoedya)の最高傑作「ブル島4部作」の第一部を映画化したものであり、181分の大作がたったのRp.25,000、インドネシアでは映画観るのが安すぎて逆に申し訳ない気がします。
プラムディアはインドネシア共産党(PKI=Partai Komunis Indonesia)との関係を疑われ政治犯として投獄され、その作品はスハルト政権下で発禁処分となりましたが、1998年のスハルト政権崩壊後に釈放され、その業績は世界で評価され「アジアのノーベル文学賞最有力候補」とまで言われました。
植民地支配下における社会や法の中での差別と偏見という不条理と戦い、支配者側から本来あるべき人間としての権利と民族の誇りを取り戻そうと格闘するジャワ人の主人公のアイデンティティの確立、民族主義の覚醒という日本人にはなかなか想像できない大きなテーマです。
インドネシアにとっての独立とは、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利、尾崎豊的にいうと「支配からの独立」と言えます。
350年近くに渡る支配からインドネシア人自ら勝ち得た独立であって、1945年8月17日がたまたま日本軍政下にあっただけ(正確には日本の敗戦から2日後)。日本からの独立であるにもかかわらず、毎年8月17日に日本人が特に気まずい思いをせずに済むのは、こういう歴史的経緯があるからだと思います。