インドネシアを題材とした代表的小説『神鷲(ガルーダ)商人』

2020/05/10

サリナデパートとマクドナルド

インドネシアのマクドナルド1号店のあるサリナデパートは初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられたインドネシア最初の大型デパートチェーンであり、インドネシアを題材とした代表的小説「ガルーダ商人」の中には、日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しく利権争いを繰り広げた歴史的史実が記載されています。

スハルト大統領

インドネシアの歴史

「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。

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思い出深いサリナデパートのマクドナルド1号店が閉店

本日5月10日を最後にインドネシアのマクドナルド第1号店であるサリナデパート店(Sarinah)が閉店になりますが、ジャカルタのショッピングモールが新しいコンセプトでモダンにリニューアルされ続ける中で、僕がインドネシアに来たばかりの20数年前には、若者の待ち合わせ場所の定番でもあったサリナデパートやブロックMのパサラヤ(Pasaraya)などは完全に時代に取り残されてしまいました。

当時からサリナデパート本体というよりも、ジャカルタっ子(Orang Betawi)にとってより重要かつ親しみやすい象徴的存在がマクドナルドであり、かつて2階にハードロックカフェがあった時代には、とりあえずマクドナルドに集合してからライブに繰り出すというような待ち合わせのメッカ的存在でした。

待ち合わせ場所はとりあえずSarinahのMcDという思い出の多い店でした。2009年頃買収により名前がTony Jackに変わって行かなくなりましたがオーナーが1年で破産しMcDが復活。衛生面の問題を指摘され一時閉店させられるなど目立つ場所にあるだけあって多くの逸話を残しました。

僕がインドネシアに来たのが1997年で、当時会社の歓迎会で連れて行ってもらったブロックMのカラオケ屋のお姉さんに、インドネシア語の先生になってもらう約束を取り付け、毎週日曜日に僕が準備した一週間分の質問メモを、質疑応答を交えながら添削してもらっていたのがこのマクドナルドです。

確か1回10万ルピアを授業料として払っていたように記憶しておりますが、これはあくまでも独身時代の話ですので念のため。

インドネシア語の先生として対峙するお姉さんから、好意を抱かれていることは分かっていましたが、僕自身はとにかくインドネシア語が上手になりたいという一心で、完全に先生と生徒という関係だと割っ切ってお付き合いしていたため、お姉さんの自分に対する苛立ちが限界にまで達した頃に、このプラトニックな関係を終わらせました。今考えると冷たいことをして申し訳なかったと思います。

今夜22時を最後にで閉店するサリナのマクドナルド1号店、北側の小さいレジでエッグマフィンセットを注文。週末朝まで北で遊んでとりあえずここで反省会したのもこれくらいの時間だったような。従業員は他店舗へ移動とのこと。

毎週土曜日にブロックMのいろんなカラオケ屋のお姉さん達と、仕事上がりのアフター夜中1時頃から、コタ地区のSydney 2000やStadiumなどのディスコティックで朝まで遊んで、空が白む時間にタクシーでサリナのマクドナルドに向かうのがルーティーンでしたが、疲れ切ったお姉さん達と一緒に朝食を食べる僕の目には、カーフリーディに汗を流しに集まって来た人々の健康的な姿が眩しく映り、刹那的で退廃的な生活を送っている自分とのギャップに不安を感じていたのを覚えています。

「神鷲(ガルーダ)商人」の中のサリナデパート

インドネシアを題材とした小説としてはもはや伝説的存在となりつつある、深田祐介著「ガルーダ商人」の下巻の中で、サリナデパートがインドネシア初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられた、インドネシア最初の大型デパートチェーンである史実が記載されており、その建設プロジェクトの受注を巡って、日本の戦後賠償引当の借款を資金として、日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しく利権争いを繰り広げます。

インドネシアに関わる仕事をする人には是非一読をお勧めします。

日系商社は大統領からプロジェクト受注の指名を受けた後、サリナプロジェクトの資金として日本政府からの戦後賠償を引き当てさせる、もしくは賠償を担保とした円借款を銀行との間で取りまとめ、建設会社を通してプロジェクトの管理の責任を持つという役割を担います。

ストーリーを通して、日系商社が大統領からプロジェクトの指名を得るために、日本政府の大物に根回しをし、女性に弱いスカルノ大統領の歓心を得るために日本人女性を「人身御供」として利用しますが、その中の一人であるディア(旧姓根本七保子であるデヴィ夫人がモデル)が、利権争いに翻弄されながらも大統領と日系商社との駆け引きを通じて、したたかに生き抜いていく様が描かれています。

東邦商事(東日貿易がモデル)は、弱小商社でありながらも社長の政治力によりスカルノ大統領訪日時の接待を任され、銀座のクラブ「マヌエラ」(赤坂のクラブ「コパカパーナ」がモデル)で歌っていた直美(七保子)の美貌と美声に大統領が惚れ込んだのを見逃さず、インドネシア駐在員富永(昨年11月に他界されたレストランKIRISIMAや日系クリニックのJクリニックのオーナーだった桐島正也氏がモデル)を通して、直美をインドネシアに送り込みます。

生前の桐島さんと一度だけ仕事でお付き合いさせていただいたことがありますが、作品中で実直な性格をもって周囲の人間の信頼を掴んでいく富永そのものという印象で、慣れない環境に戸惑う直美の相談相手となり信頼を得ることで、直美に惚れ込む大統領の信頼をも得るところとなり、東邦商事を賠償プロジェクトの受注合戦で大手商社と対等に渡り合うまでに成長させます。

最終的にサリナプロジェクトでは、ディアをうまく利用して有利に立っているつもりだった東邦商事の社長が、佐藤忠商事(伊藤忠がモデル)を通して調達した、受注金額の6%の革命資金という名のリベートをちょろまかしたことが発覚し、インドネシアビジネスから締め出されることになります。

その後インドネシア共産党PKI(Partai Komunis Indonesia)の支持基盤に支えられたスカルノ政権下のインドネシアでは、ソ連、中国に次ぐ250万人規模の共産党員がいたと言われ、1965年には大統領新鋭部隊が対立する国軍の6人の将校に対してクーデター未遂の嫌疑をかけ、拉致して殺害する9月30日事件が発生しました。

これに対して戦略機動予備軍司令官スハルト少将が素早く鎮圧し、国軍ではなく共産党によるクーデター未遂だったという見解を発表したことで、共産党勢力の一掃がはじまり、翌年の1966年にスカルノ大統領はスハルト氏に権力を移譲し、この過程でディアはフランスへ亡命することになります。

インドネシア

インドネシア政治史上パワーバランスが変わった反共産9月30日事件

インドネシア共産党によるクーデーター未遂である9月30日事件でスカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。

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サリナデパートの歴史的背景を「ガルーダ商人」で学んだ日本人は僕だけではないはずですが、今回のマクドナルドの入店を延長させないという決定は、新しく生まれ変わるサリナデパートのコンセプトに、マクドナルドがマッチしなかったということを意味し、時代の流れは止められないと感じた出来事でした。