インドネシアの歴史年表と時代区分|王朝・植民地支配・独立・大統領政権の全体像

2024/04/06

インドネシアの歴史年表と王朝から大統領政権までの全体像を構造化した図解

「インドネシアの歴史」と聞いて思い浮かぶのは、仏教王朝時代のボロブドゥール遺跡やヒンドゥ王朝時代のプランバナン寺院という歴史的建造物、オランダによる香辛料や農産物収奪を目的とした東インド会社の進出、「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」というじゃがたら文で有名なじゃがたらお春、第二次世界大戦時の南方作戦による大日本帝国の進駐、日本の敗戦直後から始まった350年近い植民地支配からの解放を勝ち取るための独立戦争、初代大統領スカルノからスハルト政権への移行と、それ以降の民主化という政治史などです。

私の頭の中でインドネシアの歴史は、古代(5世紀以前)・中世(5世紀~15世紀)・近代(15世紀~終戦)・現代(戦後)という世界史の区分の中で中世:王朝の歴史(5世紀~15世紀)➡近代:植民地支配と独立までの歴史(1602年~1945年)➡現代:歴代大統領政治史という3つの大きな時系列に区切られており、そこから派生して、世界遺産に登録されたボロブドゥール遺跡や、ジャカルタ北部コタ地区のファタヒラ広場周辺のバタビア調の建造物、歴代大統領誕生の過程などのマインドマップが広がっています。

この記事でわかること

  • 5世紀頃、中部ジャワに仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタが文化として浸透しました。
  • 1602年、オランダは東インド会社を設立し、植民地支配を拡大しました。行政の中心地バタビアは現在のジャカルタです。
  • 1942年、日本がインドネシアを統治し、1945年に敗戦後、スカルノ大統領が独立戦争を経て建国イデオロギーを確立しました。
  • スハルト大統領は工業化による経済発展を推進し、1998年の政権崩壊後、民主化が進みました。
  • ボロブドゥール遺跡の背景情報を知ることで、ビジネスの相手からの印象が良くなります。

中世から近代までの王朝の歴史

天皇陛下もご訪問になられた世界遺産ボロブドゥール|インドネシア仏教遺跡の歴史と魅力

インドネシアは、東西5,000kmにわたる広大な地域に18,000以上の島々が存在し、各地に小王国が建国されてきました。これらの王国は、宗教を国家運営の基盤として利用してきた歴史があります。15世紀までのインドネシアはヒンドゥ教と仏教が中心で、15世紀以降はイスラム化が進行しました。

インドネシアには、ヒンドゥーのプランバナン遺跡と仏教のボロブドゥール遺跡という2つの世界遺産があります。これらの遺跡はわずか30kmしか離れておらず、中部ジャワの王国が宗教を政治に利用し、衰退の過程で別の宗教に取り込まれる歴史を示しています。

  • 8世紀に中部ジャワにシャイレーンドラ朝が建国され、仏教霊廟であるボロブドゥールを建立。
  • 10世紀に中部ジャワにマタラム王朝が建国され、ヒンドゥ霊廟であるプランバナン寺院を建立。
  • 15世紀以降にマタラム王朝がイスラム化。
  • 18世紀にイスラム教のマタラム王朝がジョクジャカルタのSultanとスラカルタ(ソロ)のSusuhunanに分裂。

ヒンドゥ教や仏教は多神教で偶像崇拝を行うため、霊廟を建立するのが一般的です。ヒンドゥ教の霊廟は尖った形のCandi(チャンディ)で、仏教の霊廟は丸みを帯びたストゥーパ(仏塔)です。これらは高い場所に建立されることが多く、仏舎利塔のようにお釈迦様の遺骨が安置されているとされます。

日本の神道も多神教で、八百万の神々を信仰し、山の奥の石像や神社に氏神様として祭る文化があります。多神教は農耕文化から生まれ、祖先に感謝し、豊作を祈願する宗教です。

ボロブドゥール遺跡は、最頂部の釣鐘上のストゥーパを囲むように三層の円壇があり、下の5層の基壇には仏教経典の物語が浮彫図として描かれています。これらの浮彫図は、訪れる人々に仏の教えを説き、心を清める法施を目的としています。

仏教経典の物語では、釈尊ことゴータマ・シッダールタが、病気や老いや死という苦しみを克服するために苦行を重ね、最終的に菩提樹の下で悟りを開くまでの生涯が描かれています。

私が訪問した2018年と2020年2月当時は、靴のまま最上部のストゥーパまで自由に登れましたが、観光客のマナーの悪さと文化財保全の観点から立ち入り禁止となりました。2023年6月に天皇陛下がお登りになられた際には、サンダル着用を条件に登れるようになったようです。

ボロブドゥール仏教遺跡

ボロブドゥール遺跡の歴史と建築美|インドネシア

ボロブドゥール遺跡は8世紀から9世紀にかけてシャイレーンドラ朝により建設されました。2023年6月、天皇陛下の訪問によりボロブドゥール遺跡の知名度が日本で向上しました。ボロブドゥール遺跡は安山岩で作られ、三層の円壇と釣鐘上のストゥーパ…

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ロンボク島リゾートとバリの劇場国家:宗教と観光に宿る演出された日常

私は2001年から2007年までバリ島に住んでいました。オダラン(ヒンドゥー寺院の創建日のお祭り)のために、チャンディに向かうウパチャラ(儀式)行列が引き起こす渋滞に巻き込まれることが日常茶飯事でした。しかし、生活のすべてが祭事優先で回ることを厭わないバリ人の社会性や価値観が、イスラム教が主流のインドネシアにおいて、バリ島だけにヒンドゥー教がしぶとく生き残った要因かもしれません。

アメリカの政治人類学者クリフォード・ギアツの著作「ヌガラ-19世紀バリの劇場国家」では、バリ島の小王国(ヌガラ)において、祭儀の日がハレの日でそれ以外の日常はケの日とされ、祭儀が国を成立させる条件であると述べられています。国王が主催し、僧侶が監督、庶民が脇役や観客を務める劇場のように機能する、上下階層のない国家だったとされています。

私はインドネシアには『劇場型国家』という言葉がふさわしいと考えています。国家体制を維持するために、新聞やテレビなどのマスコミを通じて、大衆に強烈に支持を訴えるポピュリズム的手法を取ります。ユドヨノ大統領の『テロの撲滅』やジョコウィ大統領の『汚職根絶』などは、分かりやすく賛同を得られやすいスローガンです。

また、最近では犯罪事件報道すら劇場化する傾向があります。Grand IndonesiaのOlivierカフェの名前を広めたコーヒー毒殺事件など、実行犯が主役、警察が脇役、大衆が観客という『劇場型犯罪』の構図で報道されます。これは「他人の不幸を喜ぶ」という人間の本性を利用したマスコミによるコマーシャリズム手法です。

インドネシアのビーチ

ロンボク島のリゾートとインドネシアの宗教変遷

ロンボク島のKatamaranResortは砂浜まで30mでオーシャンビューを提供します。インドネシアでは15世紀までヒンドゥー教と仏教が中心でしたが、その後イスラム化が進みました。8世紀から9世紀にかけてシャイレーンドラ朝が中部ジャ…

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インドネシアの歴史を地名と紐づけて学ぶ:仕事に活かせる実践的な歴史知識

インドネシアの歴史の起点は、シャイレーンドラ王朝(8世紀~9世紀)の仏教遺跡ボロブドゥールと、マタラム王朝(8世紀~9世紀)のヒンドゥ教遺跡プランバナンです。同時期にスマトラ島のパレンバンを中心としたスリウィジャヤ王朝が栄えていました。

その後、マタラム王朝はクディリ王朝(929年~1222年)となり、ダルマワンサ王を輩出しました。ウィジャヤが建国したマジャパヒト王朝(1293年~1527年)は、宰相ガジャマダとハヤム・ウルック王の時代に最盛期を迎えました。

中世(5世紀~15世紀)

├スマトラ

│  └スリウィジャヤ王朝

└中部ジャワ

    ├シャイレーンドラ王朝(ボロブドゥール)

    └マタラム王朝(プランバナン)

        └クディリ王朝(ダルマワンサ王)

            └マジャパヒト王朝(ウィジャヤ)-(宰相ガジャマダ・ハヤムウルック王)

近代(15世紀~終戦)

                └新マタラム王朝(スノパティ)

                    ├スルタン(ジョクジャ)

                    │   └ジャワ戦争(ディポヌゴロ王子)

                    └ススフナン(スラカルタ)



                  北スマトラ

                    ├アチェ王国(イスカンダル・ムダ)

                    │   └アチェ戦争(パンリマポレム・トゥク・ウマール)

                    ├バタック(シ・シンガ・マンガラジャ)

                    └ミナンカバウ(イマム・ボンジョル)

現代(戦後)

    └独立戦争(タムリン・スディルマン)

        └9月30日事件(アフマッド・ヤニ)

16世紀には、スノパティが新マタラム王朝を建国し、イスラム教勢力が強くなりました。この王朝は1755年にジョクジャカルタ家のスルタンとスラカルタ家のススフナンに分裂しました。

同時期、北スマトラではアチェ王国が隆盛を誇り、1607年にイスカンダル・ムダがスルタンに就きました。オランダが1603年に東インド会社を設立し、植民地化が進むと、アチェ王国ではパンリマ・ポレム9世とトゥク・ウマールがオランダ軍と戦ったアチェ戦争(1873年~1904年)が起きました。

バタック地方では、シ・シンガ・マンガラジャ12世が1878年からオランダ軍とゲリラ戦を展開しました。ミナンカバウではイマム・ボンジョルが指揮する反オランダ勢力とオランダ軍との間でパドリ戦争(1821年-1837年)が起きました。

新マタラム王朝の領土削減に反抗したジョクジャカルタ家のディポヌゴロ王子が指揮したジャワ戦争(1825年~1830年)は、民衆の支持を受けてジャワ島全土に拡大しました。

タムリンは民族主義思想家の中心であり、スディルマンは独立戦争を戦った国軍の父と称される人物です。1965年9月30日、共産党に近いスカルノ大統領新鋭部隊が決起し、6人の国軍将校を殺害する事件が発生しました。このとき犠牲になった一人がアフマッド・ヤニ司令官です。

インドネシアの歴史

インドネシア歴史の知識が仕事に役立つ理由

シャイレーンドラ王朝とマタラム王朝は8世紀から9世紀にかけて栄え、ボロブドゥールとプランバナンの遺跡がその象徴です。スリウィジャヤ王朝は仏教王国で、スマトラ島の歴史に大きな影響を与えました。マジャパヒト王朝は1293年から1527年に…

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植民地支配と独立までの歴史

コタ地区とファタヒラ広場でたどるジャカルタの歴史観光:バタビア時代の街並みを歩く

ジャカルタはビジネス都市として知られていますが、その魅力は歴史的な背景にあります。特に旧市街地のコタ地区は、オランダ統治時代の商業の中心地であり、バタビア時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。これらの建物は、ヨーロッパや周辺アジア諸国との交易において重要な役割を果たしていたことを物語っています。

  • 14世紀:ジャカルタ周辺はスンダクラパと呼ばれ、ヒンドゥ教のパジャジャラン王国(バンドゥン近辺)の領地でした。
  • 16世紀にはファタヒラ率いるドゥマク王国(イスラム)が攻め入り、ジャヤカルタ(Jayakarta)と呼ばれるようになりました。ファタヒラによる征服が完了した6月22日がジャカルタの創立記念日です。
  • 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなり、首都バタビア(オランダの先住民バタウィに由来)という植民地都市となりました。
  • 1942年:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し、日本の軍政下に入りジャカルタと改名されました。
  • 1945年8月12日:スカルノ・ハッタは大日本帝国陸軍の南方軍の寺内総司令官からいつでも独立してよしの言質を得ました。
  • 1945年8月15日:天皇陛下による玉音放送で終戦。
  • 1945年8月17日:インドネシアが独立を宣言し、これが独立記念日となりました。
  • 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争がありました。
  • 1949年:名実共に独立を果たしました。

このように、ジャカルタの歴史は多くの変遷を経てきました。コタ地区を訪れることで、その歴史を肌で感じることができます。

KOTA JAKARTA

ジャカルタの歴史的観光地とその魅力

ジャカルタの旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業中心地でした。モナスは1975年に完成し、インドネシア独立の象徴として知られています。イスティクラルモスクは世界で3番目に大きいモスクです。

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じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵:インドネシアに生きた日本人たちの知られざる歴史

1603年、徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府が創設されました。3代将軍徳川家光の時代には鎖国令が徹底され、イタリア人ハーフのキリスト教徒であるお春はバタビアに追放されました。彼女は「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」という悲しいイメージがありますが、実際にはバタビアでオランダ人とのハーフと結婚し、三男四女を儲け、富を築いて大勢の使用人を使っていた成功者でした。

1602年、東インド会社の進出を契機にオランダの植民地支配が300年以上続きました。当時のオランダ領東インドには、19世紀後半から20世紀前半にかけて多くの日本人経営の商店、トコ・ジャパンが存在しました。「じゃがたら」という地名は16世紀のJayakartaがなまってJacatraとして広まり、1945年のインドネシア独立後に現在のJakartaと綴られるようになりました。

当時、行商人や売薬商、女衒に騙され売り飛ばされた「からゆきさん」たちが、バタビア周辺だけでなくインドネシア各地に根を下ろして生活していました。中央ジャカルタのプタンブラン公営墓地には、バタビアで商店を営んでいた日本人商人の他、多くの「からゆきさん」の遺骨が納められていると言われています。

カリバタ英雄墓地

じゃがたらお春とジャカルタの歴史的変遷

じゃがたらお春は1625年にバタビアに追放され、成功を収めました。ジャカルタの地名は16世紀のJayakartaから1945年にJakartaに変わりました。オランダ領東インド時代、多くの日本人が商業活動を通じて現地社会に関与しました。

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日本からの独立か、植民地主義からの解放か──インドネシア独立の本当の意味と歴史的背景

インドネシアの独立記念日である1945年8月17日は、日本の敗戦から2日後にあたりますが、実質的にはオランダによる350年間の植民地支配と3年半に渡る日本軍政の中で形成された民族主義の勝利です。インドネシア人自らが勝ち得た独立と言えます。

  • 日本書紀の記述にある初代天皇である神武天皇が即位した紀元前660年を元年として紀年した皇紀がインドネシアの独立宣言書の日付に皇紀2605年を意味する「05」(2605 - 660 = 1945)として採用されている
  • インドネシアにとっての独立とは、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利。

このように、インドネシアの独立は単なる日本からの独立ではなく、長い植民地支配からの解放を意味しています。

インドネシアの独立

インドネシア独立の背景と日本軍政の影響

インドネシアは1945年8月17日に独立を宣言しました。独立はオランダと日本の支配を経て達成されました。独立宣言書には日本の皇紀が使用されていました。

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インドネシア語の起源と国語化の理由:ムラユ語を採用した歴史的背景とは

1824年の英蘭条約により、マラッカ海峡を境にイギリス領とオランダ領に分断されました。この結果、同じムラユ語発祥でも、インドネシア側はオランダ語やジャワ語、スンダ語の影響を受け、マレーシア側は英語やその他のローカル言語の影響を受けました。これが、現在のインドネシア語とマレーシア語の違いを生んでいます。

インドネシアという国名が公式に使われるのは1945年の独立からです。それ以前はオランダ領東インドと呼ばれ、インドネシア付近は後方インドとされていました。1602年、オランダが東インド会社の拠点をジャワ島西部に設け、バタビアを首都としました。この約350年間がオランダ植民地支配の期間に該当しますが、300もの民族が10,000以上の島々に住んでいる状況で、どれほどの人々がオランダ支配を認識していたかは興味深い点です。

インドネシアは1945年8月17日に独立し、共和制を採用しました。これは君主を持たない政治体制で、国民主権の民主主義国家を目指したものです。インドネシア憲法の前文であるパンチャシラでは、イスラム教を国教とせず、インドネシア語が少数派のムラユ語を母体としたことが、国家統一に大きく貢献しました。

ムラユ語はマレー語とも呼ばれ、マレー半島やスマトラ島に住むムラユ人が話す言語です。この言語は人種や民族間での敬語表現がなく、意思疎通に便利でした。1945年憲法でムラユ語を母体とした言語をインドネシア語とする決定は、ジャワ人中心の国ではなく新しい国を造るという意図がありました。この決定には、スカルノ大統領の母親がバリ人であったことや、副大統領ハッタが西スマトラ出身であったことが影響したと考えられます。

ジャカルタ

インドネシアの多様性と統一に貢献した言語と宗教

インドネシアはイスラム教を国教とせず、多様な宗教が共存しやすい環境を整えました。インドネシア語は少数派のムラユ語を基にし、多民族国家の統一に貢献しました。1945年に独立したインドネシアは、共和制を採用し国民主権の民主主義国家を目指し…

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オランダ統治350年とは何だったのか?インドネシア独立までの歴史

インドネシアの歴史を語る際、「オランダによる350年の植民地支配」という表現がよく使われます。しかし、実際には地域によって支配の期間は異なります。例えば、アチェ王国がオランダ軍に降伏したのは1903年、バリ島のバドゥン王国が征服されたのは1906年であり、これらの地域では植民地支配の期間が40年ほどしかありませんでした。1596年にオランダ東インド会社(VOC)がジャワ島西部のバンテンに到着し、周辺地域を勝手に首都バタビアと決めて以来、350年という長い期間をかけて植民地支配が進行しました。

VOCは世界初の株式会社とされ、商業活動以外にも条約の締結権、軍隊の交戦権、植民地経営権などの特権を持つ勅許会社でした。これにより、帝国主義の先駆けとしての役割を果たしました。東西に連なる島々には王国が存在していましたが、物理的な資源の搾取は始まっていなかったものの、オランダ領東インドとしての植民地支配が始まる第一歩となりました。

実際には、350年という長期間にわたってインドネシア全土が支配されていたわけではありません。東インド諸島各地の王国は黙って従ったわけではなく、支配に対して抵抗し、独立を勝ち取るために多くの血と汗と涙を流しました。この抵抗の歴史は、初代大統領スカルノがナショナリズムを喚起し、国家の連帯を築くためのスローガンとして350年という期間を用いたことで、世間一般での共通認識となりました。

インドネシアの独立

インドネシア独立とオランダ支配の歴史的背景

オランダによる植民地支配「350年」は、VOC商船がバンテンに到着した1596年から1945年までの約349年間を指します。「350年」は初代大統領スカルノがナショナリズムを喚起するために用いたスローガンです。全土が一貫して支配された…

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歴代大統領政治史

『神鷲(ガルーダ)商人』とサリナデパート:インドネシア初のマクドナルド閉店と日系商社の歴史

深田祐介著「ガルーダ商人」では、サリナデパートがインドネシア初代大統領スカルノの乳母の名前を取ってつけられた、インドネシア最初の大型デパートチェーンである史実が記載されています。このデパートの建設プロジェクトを巡り、日本の戦後賠償引当の借款を資金として、複数の日系商社が日本政府とスカルノ政権との間で激しい利権争いを繰り広げました。

日系商社はまず大統領からプロジェクト受注の指名を受けた後、日本政府に対して戦後賠償の中からサリナプロジェクトの資金を引き当てるよう働きかけました。賠償を担保とした円借款を銀行との間で取りまとめ、建設会社を通してプロジェクトの管理の責任を持つという役割を担いました。

ストーリーを通して、東邦商事(東日貿易)が大統領からプロジェクトの指名を得るために日本政府の大物(児玉誉士夫氏)に根回しをし、女性に弱いスカルノ大統領の歓心を得るために、日本人女性ディア(旧姓根本七保子氏であるデヴィ夫人)を「人身御供」として利用します。ジャカルタ駐在員としてディアに寄り添いながら、大統領へのビジネス上の根回しに奮闘する富永(桐島正也氏)や、利権争いに翻弄されながらも大統領と日系商社との駆け引きを通じて、したたかに生き抜いていくディアの人生が描かれています。

2019年に桐島さんは他界されましたが、生前に業務システム導入のお仕事をいただき、何度かKaret KuninganのANZビル(今のATRIAビル)にあったレストランKIRISHIMAを訪問させていただいたことがあります。たぶんいろんな人から何度も聞かれて辟易されているだろうと遠慮してしまい、当時の貴重なお話を一切聞かなかったことを少し後悔しています。

今ではTVのバラエティ番組で活躍中のデヴィ夫人の生き様のみならず、インドネシアの現代政治史、商社が戦後賠償を原資として利益を得るカラクリなど、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人にとっては、現在の日本とインドネシアの関係の裏にある背景を理解する上で、非常に勉強になる名著だと思います。

ガルーダインドネシア航空

インドネシア初のマクドナルドとサリナデパートの歴史

インドネシア初のマクドナルドはサリナデパートにあり、5月10日に閉店します。サリナデパートは初代大統領スカルノの乳母の名前に由来し、インドネシア初の大型デパートです。小説『ガルーダ商人』には、日系商社とスカルノ政権の利権争いが描かれて…

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9月30日事件とインドネシア共産党の崩壊:スハルト政権末期の反共時代のなごりを体験した記憶

私がインドネシアに来た1997年当時は、スハルト政権末期であり、共産主義を賛美することは非常に危険な行為でした。国家情報調整庁、通称インテル(Intel)によって宗教侮辱罪や国家シンボル侮辱罪で逮捕される可能性がありました。共産主義者は無神論者と見なされ、建国五原則の「唯一神への信仰」に反するとされていました。

当時、私が付き合っていたスラウェシ島出身の女性は、毛沢東信奉者であり、反社会的な存在と見なされていました。しかし、1963年末の時点でPKI(インドネシア共産党)は自称250万人の党員を抱え、世界で三番目に大きな共産党でした。彼女のように水面下で共産主義を信奉するインドネシア人も多くいたと考えられます。

スカルノ大統領は、ジャワ農村文化のゴロンヨロン(相互扶助)やムシャワラとムファカット(Mufakat)の姿が共産主義社会の理想に近いと考え、共産主義に傾倒していった可能性があります。しかし、マルクス・レーニン主義は唯物論に基づいており、宗教を国家の脅威とみなしていました。

共産主義は人民の主権を重視し、民主主義と似ていますが、労働者階級による階級闘争を通じて階級のない社会を実現する過程で、共産党による一党独裁が正当化されます。私は高校時代、レーニン『帝国主義論』を読み、共産主義のユートピア社会に感情移入し、多くの時間を無駄にしました。

マルクス・エンゲルスの弁証法的唯物論に基づく共産化のプロセスは、資本主義社会の秩序に対する矛盾が階級闘争を生み、最終的に共産主義へ移行するというものです。しかし、ソビエト連邦の崩壊や市場経済の混乱は、唯物論と弁証法が合わさった弁証法的唯物論で説明される皮肉な結果です。

唯物論は物質の結びつきでしかないという哲学的立場であり、弁証法は対立を通して発展する変化の論理です。これが弁証法的唯物論として統合されると、階級闘争と一党独裁を正当化する理論的根拠となり、危険性があります。

1965年9月30日未明から10月1日にかけて、スカルノ大統領新鋭部隊配下の決起部隊が6人の国軍将校を拉致して殺害し、Lubang Buayaに遺棄する事件が発生しました。スハルト少将が鎮圧にあたり、事件はPKIによるクーデターと解釈され、「赤狩り」が行われ、共産党勢力の一掃作戦が展開されました。

この事件がPKI主導によるものであるというインドネシア政府の公式見解を形にしたものが、1973年に公開された「パンチャシラ・サクティ」記念碑や1992年に開館した「共産党の裏切り」博物館です。しかし、単なる陸軍内の内紛やスハルト少将による陰謀説、欧米諸国による陰謀説もあります。

インドネシアの独立後、スカルノ大統領は異なる文化、民族、言語、宗教を持つ人々を一つにまとめるため、欧米諸国を外敵とし、共産主義国家と繋がりを持つPKIとの関係を深めました。しかし、「9月30日事件」で国内の反共勢力とのパワーバランスが崩れ、「3月11日政変」後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾きました。

インドネシア

インドネシア共産主義と9月30日事件の影響

9月30日事件はスカルノ大統領を支えた共産勢力のパワーバランスを崩しました。スハルト政権下でインドネシアは完全に反共産路線に傾きました。PKIはかつて世界で三番目に大きな共産党でした。

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インドネシア大統領の選び方の変遷:スカルノからプラボウォまでの政治史

初代大統領スカルノは、インドネシアの建国五原則であるパンチャシラを基に国家の礎を築きました。スハルト大統領は西側諸国との良好な関係を活用し、経済発展を推進しました。ハビビ大統領は、長期独裁政治を防ぐための法整備を行い、民主化の基盤を作りました。メガワティ大統領の時代には憲法改正が行われ、三権分立が確立されました。インドネシア初の大統領直接選挙で選ばれたSBY(ユドヨノ)大統領は、テロ撲滅と民主主義経済の仕組み作りを進めました。ジョコウィ大統領はインフラ整備と産業の高度化を推進しました。

  1. 1998年5月、スハルト氏の退陣に伴いハビビ氏が副大統領から昇格し、ゴルカル党による権力集中独裁国家から近代民主主義国家への移行のための法改正を行い、2004年の大統領直接選挙に繋がりました。
  2. 1999年、政党活動が自由化され、総選挙の結果、第1党PDI-P、第2党ゴルカル党、第3党PKBという状況で、MPR内での大統領指名選挙でグス・ドゥル氏が勝利し、副大統領にメガワティ氏が就任しました。
  3. 2001年、グス・ドゥル(ワヒド)大統領弾劾に伴いメガワティ氏が副大統領から昇格し、2004年の最初の国民による大統領直接選挙でSBY氏が現職メガワティ氏を破り、2009年にも再選しました。
  4. 2014年の大統領選挙では、ソロ市長、ジャカルタ特別州知事を経たジョコウィ氏がプラボウォ氏を僅差で勝利し、2019年に再選しました。
  5. 2024年、ジョコウィ政権の開発優先政策の継承と、副大統領にジョコウィ氏の長男ギブラン氏を擁立し、ジョコウィ人気をうまく利用したプラボウォ氏が、ジャカルタ首都特別州知事アニス氏などを破り、3度目の正直で念願の勝利を収めました。

インドネシアの大統領選出の歴史は、政治体制の変遷と共に進化してきました。スカルノから始まり、スハルト、ハビビ、メガワティ、SBY、ジョコウィ、そしてプラボウォへと続くこの流れは、インドネシアの政治的成熟を示しています。

インドネシア大統領選挙

インドネシアの大統領選挙と歴代大統領の変遷

スカルノからスハルトへの政権移譲は1965年の事件後に行われました。1998年の暴動を機にハビビが大統領に昇格しました。2004年からインドネシアでは大統領の直接選挙が始まりました。

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インドネシアの暴動史:1965年・1998年・2019年を比較し民主主義の変化を読む

インドネシアの歴史において、暴動は重要な転換点を示しています。私がインドネシアに初めて訪れた1997年、アジア通貨危機が発生し、ルピアが暴落しました。これにより原油輸入価格が高騰し、生活必需品やタクシー料金が値上がりしました。国民の不満はスハルトファミリーを中心としたKKN(Korupsi汚職・Kolusi談合・Nepotisme縁故主義)に対する批判にまで発展し、インドネシア各地で大規模な暴動が発生しました。

  • 1965年の9月30日事件後、共産党支持者の虐殺が発生しました。これは共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという名目で行われたもので、政権奪取と基盤の安定を目的としたデマゴギーの結果としての暴動でした。
  • 1998年5月の暴動は、スハルト独裁体制の終焉に乗じて、1965年の事変の再現を狙った中華系インドネシア人をスケープゴートとした特定の集団が扇動したものでした。
  • 2019年の暴動は、同じ手法で社会を扇動しようとしたものの、民主主義国家となったインドネシアでは通用しなくなったことが証明された暴動でした。

インドネシアの歴史の過渡期には、その時代を反映した流行語が生まれます。1998年の燃料BBM値上げをきっかけに激化した学生運動と暴動でスハルト政権が退陣したReformasi(革命)の後には、IMF主導による高金利政策下でのハイパーインフレ時はKrisis moneter(金融危機)がやってきたと言われ、国が傾きかけたときに自然発生した3つ目の流行語がCinta Rupia(ルピアを愛そう)です。

これらの暴動と流行語は、インドネシアの民主主義の変化を読み解く鍵となります。

ジャカルタの警察

インドネシアの暴動と民主主義の成熟:歴史と現状

インドネシアでは、共産主義イデオロギーの脅威を理由に暴動が起きましたが、民主主義の成熟により同じ手法での扇動は難しくなっています。2019年の大統領選挙では、ジョコウィ大統領が再選され、プラボウォ支持者による抗議デモが発生しましたが…

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インドネシアにおける中華系差別の歴史と変化:スハルト政権から民主化までの民族分断と和解の軌跡

インドネシア独立後、スカルノ大統領は共産主義に傾倒しました。これは、ジャワ農村文化のゴロンヨロン(相互扶助)や、伝統的合意形成方法であるムシャワラと全会一致のムファカットが共産主義社会の理想と相性が良かったためと考えられます。

スハルト政権は、9月30日事件をPKI(インドネシア共産党)が政権転覆を狙ったクーデターとし、共産勢力への弾圧を社会治安の安定に不可欠としました。PKIは1963年末に250万人の党員を抱え、世界で三番目に大きな共産党であったため、結果的にインドネシアの共産化が防がれたとも言えます。

スハルト大統領は、スカルノ大統領の後継者としてパンチャシラを国民の愛国教育に利用し、独裁長期政権を築きました。西側諸国との関係を深め、外資導入を促進するスタイルは「開発独裁」と呼ばれました。多民族国家をまとめるためにパンチャシラを利用しつつ、反共産主義をアピールする必要があり、中華系への差別的雰囲気を醸成しました。

1997年、私がインドネシアに来た当時、中華系に対する抑制政策は続いており、漢字表記の看板を禁止するなどの措置が取られていました。スハルト独裁政権の間、プリブミ(大地の子=主にマレー系インドネシア人)と中華系インドネシア人の分断が進みました。

1998年5月のジャカルタ暴動では、中華系インドネシア人がスケープゴートとされ、略奪や破壊行為が行われました。多くの商店のシャッターには「うちは中華系の店じゃないから襲わないでください」というメッセージが書かれ、私の記憶に鮮明に残っています。

1999年、金融危機の中、ワヒド大統領政権でKwik Kian Gie(郭建義)氏が経済担当調整大臣に選出されました。中華系インドネシア人の同僚が閣僚の顔写真一覧を見せながら「この中でチャイニーズは誰か分かるかい?」と嬉しそうに聞いてきたことを覚えています。

民主化が進む中で、中華系インドネシア人の活動を抑制する政策はなくなり、街には漢字表記の看板が見られるようになりました。スハルト政権下で認められなかったKonghucu(儒教)が、正式に国家が認める6つ目の宗教に復活しています。

中華系インドネシア人

インドネシアの社会分断と中華系住民の地位向上の背景

スハルト政権時代、インドネシアは共産主義から資本主義へと転換しました。プリブミと中華系インドネシア人の間に分断が生じ、緊張が高まりました。1998年の暴動は中華系インドネシア人への嫉妬と不満が原因とされています。

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