政治・宗教・金融・病気という異なる要因が絡むインドネシアの不景気

2020/03/25

ジャカルタ

インドネシアは定期的に不景気になりますが、通貨危機に端を発した暴動(1998年)は政治的要因、爆弾テロ(2002年-2004)は宗教対立、リーマンショック(2008年)は金融問題、そして今回2020年のコロナ禍は病気と、主要因は毎回異なります。

スナヤン競技場(Gelora Bung Karno)

インドネシアの政治・経済・社会

日本人のインドネシアについてのイメージはバラエティ番組で活躍するデヴィ・スカルノ元大統領夫人の知名度に依存する程度のものから、東南アジア最大の人口を抱える潜在的経済発展が見込める国という認識に変遷しています。

続きを見る

インドネシアでたびたび起こる不景気の直接的要因は毎回違う

僕がインドネシアに来てからこれまで何度か経済不況を見てきましたが、今回の新型コロナウィルスの感染拡大により、間違いなく景気後退しますので、数年後にはこれがコロナショックとかコロナ不況とか呼ばれるようになるのかもしれません。

インドネシアは定期的に不景気になるけどクリスモン(1998年)は政治、爆弾テロ(2002年-2004)は宗教、リーマンショック(2008年)は金融、そして今回のコロナは病気と毎回要因が違うんだよなあ。

不況の要因は複合的なので、あくまでざっくり区分けしただけですが、要因が異なれば影響範囲や対処法が異なるので、過去の不況から来るべきコロナショックによる影響等を予測できるかもしれません。

通貨危機 1998年~(政治的要因)

僕がインドネシアに初めて来た1997年10月より前から、日本では山一證券や北海道拓殖銀行の経営危機が取り沙汰されており、銀行がバブル経済時に融資した企業の事業の失敗により資金回収ができないだけでなく、担保である不動産価格も下落するという不良債権回収の問題で、連鎖的な銀行の破綻と銀行同士の吸収合併などが噂されている時期でした。

ジョージソロスを中心としたヘッジファンドによる通貨の空売り(ノーポジで売り契約を入れること)攻勢により、世界的に見て外貨取引量の少ない東南アジアの通貨が連鎖して下落しました。

具体的にはヘッジファンドは、当時のルピア価値が割高だと評価し、将来下落することを見込んで、手元に持っていないルピアを借りて売り、後から買い戻す際に、予想通り価格が下がっていれば利益を得ることができたわけです。

インドネシアルピアも対ドルレートは下がり続けた結果、海外からドル建てで借金していたインドネシア国内企業の金利と元本の返済が滞るようになったことで、インドネシア通貨危機(krisis moneter 略してクリスモン)に突入しました。

原油の輸入コストが上がったことで国内の燃料BBM(Bahan Bakar Minyak)価格が高騰し、連鎖的に9つの生活必需品スンバコ(Sembilan Bahan Pokok)価格も上昇し、生活が圧迫された国民の間からは、32年間続いていたスハルト政権のKKN(Korupsi汚職・Kolusi談合・Nepotisme縁故主義)への批判が公然と行われるようになり、学生を中心としてスナヤンの国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)前、スマンギのAtmajaya大学やグロゴールのTrisakti大学のキャンパス前でデモが激しくなっていきました。

経済混乱の主要因はスハルト独裁体制にあるという共通認識が出来上がり、Reformasi(改革)を訴える行動がヒートアップしていく中、貧富の差に対する嫉妬が怒りとなって中華系インドネシア人に向かうよう扇動された結果、略奪や暴行、焼き討ちによって1,000人以上の犠牲者が出たジャカルタ暴動(Kerusuhan Mei 1998)につながりました。

あの日、スミットマスビルからクニンガンの自宅まで、暴徒を避けながら南ジャカルタ方面まで迂回すること4時間、途中でスハルトファミリー系のスーパーマーケットGOROから略奪した商品をショッピングカートに山積みして嬉しそうに引き上げる人々には寒気がしましたが、今思えば2006年イラクのフセイン政権の崩壊や2011年リビアのカダフィ大佐失脚ほどの極端な暴力的手法による政権交代でなかったことは幸いだったと思います。

外貨準備が底を尽きルピア暴落を防ぐための通貨防衛が出来なくなる一方で、国内に流動する現金を集めるために金利だけはどんどん上がり続け、中小の銀行が次々に倒産し、銀行間の吸収合併が進みMandiri銀行(Bank Exim, Bank Dagang Negara, Bank Bumi Daya, Bank Pembangunan Indonesiaの4銀行)やPermata銀行(Bank Bali, Bank Universal, Bank Prima Express, Bank Artamedia, Bank Patriotの5銀行)が誕生しました。

インドネシアの通貨危機による経済の疲弊が政治体制を崩壊させる引き金になったわけですが、国家の権威(wewenang)の最高機関がMPRからDPRに移され、実行主体の最高権力は行政が大統領、司法が最高裁判所MA(Mahkamah Agung)、立法が国民議会DPRという三権分立が確立するなど、民主化のための土台作りが行われていきますが、その過程でイスラム過激派による爆弾テロが社会問題となっていきました。

爆弾テロ 2002年~2004年(宗教的要因)

当時僕は2001年6月にジャカルタからバリ島に引っ越し、デンパサールに家とオフィスを借りて家具と雑貨の輸出の会社として独立したばかりであり、同年9月11日ジャカルタの友人とクタの日本食レストランで、ニューヨークのWTCビルに民間機が突入する映像を見た時も、何か遠い国の出来事のように感じていました。

インドネシアで最初にイスラム過激派によるテロを身近に感じたのは、2000年に発生したImam Bonjol通りのフィリピン大使公館前での爆弾テロで、当時Thamrin通りにあった会社のオフィスで窓ガラスが揺れるほどの爆発音を聞いてびっくり、500m先のMandiri銀行ビルの窓ガラスが割れていたのが印象的でした。

なによりも当時のバリ島にはメガワティ氏率いるPDI-Pの強力な支持基盤があり、政情不安定なインドネシアの中にあってもバリ島だけは安全で、テロも発生したことはないという安全神話がありました。

その安全神話が崩れたのが2002年、10月12日夜11時頃にドカーンという地響きとともに窓ガラスが大きく揺れ、バリ島でも珍しく地震があるもんだなと、それほど気にせず寝てしまいましたが、翌朝実家の母親からの電話で前夜の爆音がクタでの爆弾テロの音だったことを知りました。

  • 2002年10月 バリ島KutaのレストランRAJA, レギャン通りのSari club前
  • 2003年8月 ジャカルタのKuninganのJWマリオットホテル。2009年7月に2度目の爆弾テロ。
  • 2004年9月 ジャカルタのKuninganのオーストラリア大使館

バリ島への旅行を予定していたうちの両親が宿泊する予定のFour Seasons Jimbaran Bay前でも爆弾(不発)が見つかるなど、テロの恐怖がだんだん身近に迫っているのを感じ、安全神話を信じていたバリ人の間ではなおさら、非バリ人に対する排他的感情が沸き起こっているのが感じられました。

クタの爆弾テロ直後のバリ島は観光客が激減し、Legian通りも閑古鳥が鳴いている状態で、ただでさえ誉め言葉として「落ち着いた雰囲気」と評されるサヌールのDanau Tamblingan通りにあった僕のブティックの売上は激減し、経営難を救うガルーダの如くやってくる欧米人のおばちゃんの爆買いに頼って細々と生き残っている状態でした。

当時は世界中でイスラム過激派によるテロが国際政治を混迷させる時代が来るとは想像もしていませんでしたが、一時的な社会的混乱は起こったとしても、民主国家に生まれ変わったインドネシア経済自体は堅調に成長していきました。

リーマンショック 2008年~(金融的要因)

2008年頃までアメリカではクレジットカードで延滞を繰り返すなど信用力の低い個人や低所得者層を対象にした高金利のサブプライムローンが急増していましたが、住宅ブームの収束とともに返済延滞が発生すると、ローンに関連した証券化商品の価格が暴落し、同年9月にはリーマン・ブラザーズ証券が破綻したことで世界的な金融危機が発生しました。

自分はリーマンショック前のオンライントレーディングブームに乗っかり、インドネシア株や投資信託(Raksa Dana)にまとまったお金を入れましたが、メイン取引の証券会社であったSarijaya証券が倒産し、口座に預けた金額が飛んで集団訴訟団に参加したり、デイトレードでMPV車一台分くらい溶かしたり、散々な目に遭いました。

リーマンショックの影響が小さかったインドネシアでも後遺症は1年以上感じたのに今度は世界的規模。今のところ株価の下がり具合は当時の5割程度なので当時ほど阿鼻叫喚は聞こえていない。自分も証券会社倒産で口座が吹っ飛び集団訴訟の主催者に訴訟詐欺にあい個別株でInova一台分溶けた。経済回そう。

ただ民主化により国内の経済活動が活発になり、個人消費者に支えられた内需主導型経済が形成されつつあったインドネシアは、リーマンショック時も4%の経済成長を維持しており、金融市場の規模の小ささが幸いして実経済に及ぼす影響は小さかったと評されることが多いようです。

その後2016年には、国内取引のルピア建ての義務、海外からの外貨借入へのデリバティブ資産によるヘッジ義務が規制化されたことにより、民間企業の海外からの外貨建て借り入れが事実上制限されています。

インドネシアは民主化後の技術集約型経済(Technology Intensive Economy)へのシフトがうまくいかず、インドネシアの工業化は停滞し、スハルト独裁政権時代に20%を占めていた製造業GDP寄与率は16%にまで落ち込んでおり、国内で付加価値産業が育たず輸出競争力は極めて低いのが現状です。

コロナショックに向けて 2020年~(疫病的要因)

今回の新型コロナウィルスの蔓延に伴い起こりうる経済不況は、ファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)に問題があったわけでなく、突然降って湧いた疫病という突発的事象に起因するものであるため、大震災のような自然災害に近いと思います。

インドネシア政府は既に4月~9月までの半年間は個人所得税PPH21の免除や、製造業で働く年間所得が200jutaまでの労働者の所得税を100%免除措置、さらに零細企業、中小企業、オジェック運転手、タクシー運転手、漁師(Usaha mikro, Usaha Kecil, Tukang Ojek, Sopir Taksi, dan Nelayan)のバイクや船の購入に伴う金利と分割払い(pembayaran bunga dan angsuran)の1年間の猶予など、インドネシア経済を支える個人消費を守る措置を検討中です。

その間は政府が銀行に対して金利保証するのか、その財源はどうするのか等がこれから明らかになると思いますが、とかく政治がポピュリズムに走りやすいお国柄なので、国民大半が新型コロナウィルスに対して危機感を募っている今、後発の利として他国の経済政策の成功と失敗を参考にできる立場であることは幸いだと思います。