スハルト政権時代に、インドネシアの国家イデオロギーは共産主義のユートピア志向から資本主義のリアリズム志向への大転換が行われ、プリブミと中華系インドネシア人とが分断される空気が作られましたが、昨今の民主化と経済発展のおかげで、プリブミの心情が変化し中華系への理不尽な嫉妬が減ったと考えます。 インドネシアの歴史 「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。 続きを見る
プリブミと中華系が分断される空気があった時代
プリブミ(PRIBUMI)とはインドネシア語で「大地の子」という意味になりますが、主にマレー系インドネシア人を意味する言葉です。
インドネシアは人口のわずか5%の中華系資本が、経済の90%を独占していると言われて久しいですが、今でこそ日常生活の中で嫉妬や不満の声を聞くことはほとんどなくなったとはいえ、20年前ほどは会社の技術スタッフや運転手から、会計や購買などお金が絡む部署を管理する中華系スタッフに対して「あいつはオラン・チナ(中国人)だから」という枕詞付きの悪口を聞かされることがたびたびありました。
当時はスハルト政権末期の時代で、中華系に対する国民の嫉妬や不満をそらすために、屋外に漢字表記の看板を表に出すことは禁止するなど、中華系色が表舞台に露出することに対する抑制政策を行っていましたので、一般庶民からすれば中華系の人間は政府から規制を掛けられている身分のくせして、金持って偉そうにしやがって、という屈折した感情があったのかもしれません。
当時僕が住んでいたクニンガン地区にある月50万ルピアのコス(下宿みたいなもの)のオーナー夫婦が中華系で住人の大半も中華系であり、土地勘もインドネシア語もさっぱりの自分に対して、ケーキの差し入れを持ってきてくれたり、誕生パーティーに呼んでくれたり、外から部屋に女の子を連れ込んだときは、ああ日本人が悪い女に引っ掛かったとばかりに10分おきにノック攻撃をかけてくれたり、全員が自分をさながら家族の一員のように扱ってくれました。
一方でコスには部屋の掃除、洗濯、お使いその他もろもろの雑用を住み込みで引き受けるオフィスボーイという江戸時代の丁稚奉公みたいな少年たちが複数名おり、オーナー夫婦によるオフィスボーイに対する厳しい口調での容赦ない叱責の声が響き渡るのを聞くたびに、ああインドネシアは中華系が経済的に支配する階級社会なんだなあと感じたものでした。
1998年5月12日(または13日)にジャカルタで発生した大暴動は、完全に中華系インドネシア人をスケープゴートとした略奪、破壊行為であり、コスの住人からは絶対外に出るなと忠告は受けたものの、どうしても好奇心を押さえることが出来ず、翌日オジェック(バイクタクシー)をチャーターして甚大な被害を受けたと言われるコタ方面に見学に行き、左右に並ぶビルのガラスが投石でことごとく割れたガジャマダ通りから、川にバスが突き落とされて引っ掛かっているハヤム・ウルック通りを抜けて、つい1週間前にデジカメを買ったばかりのグロドックが焼け焦げて倒壊している惨状を見て、これが本物の暴動なんだと気分が高揚した記憶があります。
ジャカルタの多くの店のシャッターに、ペンキで目立つように「うちは中華系の店じゃないから襲わないでください」という暴徒に対するメッセージとして、「PRIBUMI(プリブミ)」という文字が書かれていたのは異様な光景でしたが、昨年のアメリカでのBLM(Black Lives Matter)の暴動のニュースで、「ここはシングルマザーが苦労して経営しているだから略奪しないで」と表記されている店が放映されていたのを見たとき、23年前のジャカルタでの光景を思い出しました。
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インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語
9月30日事件後の共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという大義名分による暴動、スハルト体制終焉に事変の再現を狙い中華系インドネシア人をターゲットとした扇動による暴動、今回の暴動では同じ手法での扇動が民主主義国家インドネシアでは通用しないことが証明されました。
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この暴動は、長年鬱積したプリブミによる中華系インドネシア人に対する嫉妬と不満が暴発したものという意見もあれば、スハルト大統領の娘婿プラボゥオ氏による、政権転覆を狙ったクーデターだなどという憶測も飛び交いましたが、30年以上も続いたスハルト独裁政権の間、プリブミと中華系インドネシア人とが分断される空気が漂っていたのは確かだと思います。
1992年のバルセロナオリンピックでインドネシア初の金メダリストになったスシ・スサンティを描いた映画「Susi Susanti Love All」の中で、国家的英雄であるスシがインドネシア国籍証明書SBKRI(Surat Bukti Kewarganegaraan Indonesia)が取得できず苦悩するシーンがありますが、当時のスハルト政権下での中華系インドネシア人に対する差別的待遇が垣間見れる印象的な場面でした。
共産主義のユートピア志向から資本主義のリアリズム志向への転換
1965年の9月30日事件を境に、スカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト氏が事実上政治の実権を握った後に、インドネシアは完全に反共産路線に傾きました。
スハルト政権の見解として、9月30日事件とはPKI(インドネシア共産党)が政権転覆のために、左派の大統領親衛隊をそそのかして引き起こしたクーデターであり、共産勢力に対する弾圧は社会治安の安定のために不可欠だったというものですが、実際にPKIは1963年末の段階で自称250万人の党員を抱えるソ連共産党、中国共産党に次ぐ世界で三番目に大きな共産党であったことから考えると、結果的にインドネシアの共産化が防がれたとも言えるわけです。
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インドネシア政治史上パワーバランスが変わった反共産9月30日事件
インドネシア共産党によるクーデーター未遂である9月30日事件でスカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。
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インドネシア独立後、スカルノ大統領が共産主義に傾倒していったのは、ジャワ農村文化であるゴロンヨロン(相互扶助)や、伝統的合意形成方法であるムシャワラと全会一致のムファカット(Mufakat)の姿が、共産主義社会の理想と相性が良かったからだと思われますが、インドネシアの国家イデオロギーは、スハルト氏によってユートピア社会(理想社会)志向から、真逆のリアリズム志向へと方向転換することになります。
スハルト大統領の国家イデオロギーとしては「インドネシア建国の父」と評されるスカルノ大統領の正当なる後継者であることをアピールするために、建国五原則であるパンチャシラを国民の愛国教育に利用し、独裁長期政権のための政治体制を築く一方で、西側諸国との関係を深めることで外資導入を促進し外国援助を取り付けるスタイルは「開発独裁」と言われました。
東西に長く連なる島々で構成される広い国土に分散される多民族の国民を一つにまとめるために、パンチャシラをうまく利用する一方で、スカルノ時代を超えるためには反共産主義の姿勢をアピールする必要があり、開発独裁政権下では「多様性の中の統一」という言葉も虚しく、プリブミと中華系とを分断するような空気が出来上がり、中華系インドネシア人が政治の表舞台に出ることはありませんでした。
当時、中華系インドネシア人スタッフの結婚式に招待され、指定されたコタ地区の式場の住所に到着するも、シャッターが半分開いた殺風景な商店みたいなところで、本当にここで場所は合っているのかと不安になっていたところ、半開きのシャッターの中に案内され二重扉を開けると、そこにはド派手な宮殿のような贅沢な式場が広がっていたという漫画のような経験をしたことがありますが、そのときにインドネシアの中華系インドネシア人の商売とは、人々の嫉妬や反発を受けないように表向きは地味を装い、裏でしっかり実利を取るものだと納得しました。
民主化プロセスの中での中華系の「主権」回復
1998年にスハルト政権が暴動をきっかけに崩壊し、1999年に第三代大統領ワヒド(グスドゥール)政権の経済担当調整大臣としてKwik Kian Gie(郭建義)氏が選出されたとき、同僚の中華系インドネシア人が閣僚の顔写真一覧ポスターを見せながら「この中でチャイニーズは誰か分かるかい?」と嬉しそうに聞いてきたことをよく覚えています。
民主化のプロセスが進む中で中華系インドネシア人の活動を抑制するような政策はなくなり、街には漢字表記の看板が見られるようになり、スハルト政権下で認められなかった儒教が、正式に国家が認める宗教に復活しています。
昔、バティックや雑貨の輸出会社をやっていたとき、中華系インドネシア人の店主と話をする際に、彼らがよく使っていた「orang kita(我々側の人間)」という言葉を聞くたびに、政治的な問題でどこか警戒しながら生きざるを得ないんだなあと若干気の毒に感じたものですが、最近この言葉を聞く機会もほとんどなくなり、それだけインドネシアは民主化が進み経済成長の恩恵で人々の生活レベルが底上げされたことで、理不尽な嫉妬が減ったということであるならば喜ばしいことだと思います。