ジャカルタの観光地としての魅力は、地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業の中心地で、ファタヒラ広場付近にはバタビア時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。 インドネシアの歴史 「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。 続きを見る
ジャカルタはビジネス都市であって観光地ではない?
インドネシアの観光地といえば「神々の住む島」バリ島や、中部ジャワの古都ジョクジャカルタなどが有名ですが、首都ジャカルタはビジネス都市なのでわざわざ観光するほどの見どころは少ないとよく言われます。
それでもジャカルタに出張してくるお客さんから1日または半日のアテンド(観光案内)を頼まれる場合、スカルノ初代大統領によって提案され1975年に完成したインドネシアの独立の象徴であるモナス(Monas=Monumen Nasional 独立記念塔)と、世界で3番目に大きい東南アジア最大のモスクであるイスティクラル(Istiqlal)と、その対面にあるジャカルタ大聖堂(カテドラル Katedral)の3つは、オブジェクトの背景にある歴史的価値は大きいものの、観光地としての設備が整っているとは言い難く、車中から遠目でその巨大な外観を眺めるくらいにしておいたほうが無難かもしれません。
これが中部ジャワのボロブドゥール遺跡であれば遠目から眺めるだけでなく、廻廊を歩いて浮彫図を触りながら心を清め生きるとは何かについて考え直すことに意味がありますが、モナスの場合は灼熱の太陽の下で汗だくになって広大な敷地を歩いて、塔頂部に上るために基底部にたどり着いたと思ったら、今度は大勢の人混みの中でエレベータの順番待ちで消耗します。
イスティクラルモスクやジャカルタ大聖堂にいたっては、本来礼拝のための宗教施設であるため、観光客の見学を受け入れているとはいえ、無宗教の日本人にとって若干の入り辛さは否めません。
バタビア時代のコロニアル様式の建造物が多く残る旧市街地コタ地区
ジャカルタの北部にある旧市街地コタ地区は、ジャカルタがバタビア(Batavia)と呼ばれていたオランダ統治時代の商業の中心地であり、特にコタトゥア(Kota Tua 古い都市)と呼ばれるコロニアル様式の建造物がたくさん残るファタヒラ広場(Fatahillah)周辺は、近年政府によって急速に保全工事が進められています。
ジャカルタの観光地としての魅力は、地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、実際にコタ地区を歩いてみると世界史の授業で習ったオランダ東インド会社(オランダ語でVerenigde Oost-Indische Compagnie=VOC)が統治していた時代の街の光景を想像できます。
コタ地区といってもスンダクラパ(Sunda Kelapa)、ファタヒラ広場(Fatahillah)、中華街(Pecinan)、アラブ街(Pekojan)など広範囲に分かれるのですが、ジャカルタの観光地としての魅力である歴史を語る上では、バタビア時代の建造物が集中しているファタヒラ広場周辺と、跳ね橋(Jembatan Kota Intan)や東インド会社の倉庫を利用した海洋博物館があるスンダクラパ地区(Sunda Kelapa)が観光の中心になるのではないでしょうか。
- 14世紀:ジャカルタ周辺はスンダクラパと呼ばれていた。
- 16世紀にはジャヤカルタ(Jayakarta)と呼ばれるようになる。
- 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなり首都バタビアと呼ばれる。
- 1943年2月:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し日本の軍政下に入る。
- 1945年8月15日:天皇陛下による玉音(ぎょくおん)放送で終戦。
- 1945年8月17日:インドネシアが独立を宣言(独立記念日)
- 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争
- 1949年:名実共に独立。
インドネシアの歴史の大筋の流れの中で、17世紀から20世紀初頭までの約350年間、オランダ領東インドのバタビアの時代に建造された歴史的価値の高い建物が保全されることで、ジャカルタの観光地としての価値は十分高まると思います。
ファタヒラ広場周辺
観光地には外から外観を眺めてその荘厳さ・雄大さに感動する景色や建造物、内部を見学してはじめてすばらしさを理解できる建物や遺跡、そして外観から全体を把握することはできないので実際に歩きながら歴史的価値を感じる保護区などがあります。
過去に学んだ知識を元に、実際に現場で歩いて現物で見ることで『答え合わせ』を楽しめる人にとって、ファタヒラ広場周辺は17世紀から20世紀初頭まで存在したと学校で習ったオランダ領東インドの街並みはこんな感じだったんだと想像しながら歩くと楽しい場所です。
日本でインドネシアに渡った先人としておそらく一番よく知られている「じゃがたらお春」が、オランダ領東インドのバタビア(ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に来たのが寛永2年(1625年)であり、ちょうどその時代のファタヒラ広場周辺はバタビアの中心として栄華を極めていたものと想像されます。
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ジャカルタで会える昔の日本人の足跡【じゃがたらお春・からゆきさん・残留日本兵】
じゃがたらお春はバタビアでオランダ人とのハーフと結婚して富を築いた勝ち組だったようです。女衒に騙され売り飛ばされて来たからゆきさんはインドネシアの各地に根を下ろして生活していました。敗戦後にインドネシアに残った日本人兵士がインドネシア人と共にオランダ軍・イギリス軍と戦いました。
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ファタヒラ広場を取り囲む歴史的建造物
- バタビアカフェ(Cafe Batavia):
1850に東インド会社提督管理事務所(VOC administration office)として建設された建物を1993年にカフェとして開店。 - ワヤン博物館(Museum Wayang):
1640年にオランダ旧教会(Gereja Lama Belanda)として建設され、1808年の地震により崩壊後、1975年に跡地に博物館として再建。 - 歴史博物館(Museum Fatahillah):
1707年にバタビア市庁舎(Balai Kota Batavia)として建設され事務所、法廷、刑務所機能も兼ねる。1942年から1945年の日本統治時代は大日本帝国物流集積所として使用され、インドネシア独立後西ジャワ州政府庁舎となり、1974年にリフォーム後に歴史博物館となる。 - 絵画陶磁器博物館(Museum Seni Rupa dan Keramik):
1870年にオランダ領東インド政府によってバタビア司法会議所として使用され、1967年からジャカルタ市長事務室として使用され1976年に絵画陶磁器博物館となる。 - ファタヒラ広場郵便局(Kantor Pos Jakarta Taman Fatahillah):
1929年に建設されて以来郵便局として使用されている。
クルクット川(Kali Krukut)に面した建造物
クルクット川の両岸のカリブサール通り(Kali Besar)に沿ってたくさんの古いコロニアル様式の建物が残され、戦前には多くの日系企業も入居しており、今も船会社や保険会社、金融機関のオフィスとして使われています。
ファタヒラ広場の南側にある建造物
- インドネシア銀行博物館(Museum Bank Indonesia) :
- マンディリ銀行博物館(Museum Bank Mandiri):
- コタ駅(Stasiun Jakarta Kota) :
スンダクラパ地区
14世紀、今のジャカルタはSunda Kelapaと呼ばれ、オランダ領東インドのバタビア時代以降も港周辺の貿易の玄関口一帯を指すようになりました。
ファタヒラ広場からカリブサール通りを川沿いに北に10分ほど歩き、メルキュールホテルを過ぎたあたりでコタインタン橋が見えてきます。
コタインタン橋からさらに川沿いに北に進み陸橋のガードを抜けるとVOC Galangan Cafeがあり、川を渡ったところに海洋博物館の建物が見えます。
- コタインタン橋(Jembatan Kota Intan):
1628年にオランダ領東インド政府によって作られた跳ね橋。 - VOC Galangan Cafe:
1628年に大型船の修理工場として建設。 - 海洋博物館(Museum Bahari):
1652年から1771年にかけて東インド会社によって段階的に建てられたスパイスなどの農産物を保管、選別、包装するための倉庫。