インドネシアで仕事をする上で覚えておくと役に立つ歴史の知識とは、その瞬間にその場所で見た映像や聞いた情報を、時間軸の流れの中に置き、コンテキスト(背景)を想像するための道しるべに使えるレベルで十分であり、具体的な場所や建造物との連想記憶で覚えるのが一番だと考えます。 インドネシアの歴史 「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。 続きを見る
仏教・ヒンドゥ教王朝が乱立した時代(古代から中世)
古代インドネシアにモンゴロイド系人種が大陸からマレー半島を経由して移住し、その後インド南部からヒンドゥ人が移住し、ジャワ島にヒンドゥ文化を持ってきたわけですが、インドネシアの歴史のはじまりとしては、シャイレーンドラ王朝(8世紀~9世紀)の仏教遺跡であるボロブドゥール(Borobudur)とマタラム王朝(8世紀~9世紀)のヒンドゥ教遺跡であるプランバナン(Prambanan)を起点に考えるのが宜しいのではないでしょうか?
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インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール仏教遺跡
インドネシアを代表する世界遺産ボロブドゥール遺跡は、カンボジアのアンコールワットと並ぶ歴史上世界最大規模の仏教寺院群で、中部ジャワのジョクジャカルタの北西40kmほどの山間の街Magelangに存在します。
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2021年1月9日、スマトラ島をベースにした国内航空会社スリウィジャヤ(Sriwijaya)航空の、ジャカルタ発カリマンタン島ポンティアナックのスパディオ空港行182便が墜落し、乗客乗員62名全員が死亡した事故がありましたが、上のシャイレーンドラ王朝やマタラム王朝と時を同じくして、スマトラ島のパレンバンを中心とした仏教王国スリウィジャヤ王朝が栄えていました。
その後マタラム王朝はクディリ王朝(929年~1222年)となり、のちに南ジャカルタの高級ホテル、アパートメントで有名なダルマワンサ(Dharmawangsa)王を輩出し、その後ダルマワンサスクェアの横にあるウィジャヤ(Wijaya)センターのウィジャヤが建国したのがマジャパヒト王朝(1293年~1527年)です。
マジャパヒト王朝の最盛期を築いた宰相ガジャマダ(Gaja Madah)とハヤム・ウルック(Hayam Wuruk)王の名前は、ガジャマダプラザやその先の歓楽街マンガブサールに向かう大通りとして在住日本人には馴染み深い名前となっています。
イスラム教王朝時代とオランダ領東インドの時代(近世から近代)
イスラム教の新マタラム王朝
南ジャカルタにおしゃれな高級レストランやサロンが並ぶスノパティ(Senopati)通りがありますが、16世紀にマジャパヒト王朝の後に勢力を拡大したのがスノパティによって建国された新マタラム王朝(古代ヒンドゥ教のマタラム王朝とは別物)で、この時代からヒンドゥ教よりもイスラム教勢力が強くなります。
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中部ジャワの古都、ジョクジャカルタとソロ(スラカルタ)は日本の京都と奈良に例えられますが、この新マタラム王朝の王位継承問題により、1755年にジョクジャカルタ家のスルタン(Sultan)とスラカルタ家のススフナンに分裂しました。
この格式高いスルタンを冠する高級ホテルが南ジャカルタと中央ジャカルタにありますが、そもそもスルタンとはカリフ(預言者ムハマンドの後を継ぐイスラム世界の精神的な指導者)から政治を委任された君主のことであり、これがヒンドゥ教の王様の場合はラジャとなります。
身内ネタで恐縮ですが、南ジャカルタの高級アパートメントにパクボノ(Pakubuwono)レジデンスがありますが、ソロ出身のうちの嫁はんは8世代遡るとソロのススフナンだったパクボノ三世(Pakubuwana III)に繋っています。
時代を同じくして16~17世紀には北スマトラでアチェ王国が隆盛を誇り、1607年にスルタンに就いたのがイスカンダル・ムダ(Iskandar Muda)であり、南ジャカルタのガンダリアモール前の大通りの名前となっており、古代ギリシアのマケドニア王国の王様アレクサンダー(アレクサンドロス)のイスラム圏での呼称です。
※アレクサンダーは英語というご指摘をいただきました。またイスカンダルさんはイスと呼ばれることのほうが多いようです。
ちなみにブロックMのパサラヤの前をクマン方面に走るイスカンダル・シャー(Iskandar Shah)という通りがありますが、こちらは15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家マラッカ王国の王様で、インドネシアで偉人として扱われる経緯がよく分かりません。
オランダ統治への反乱
1603年にオランダが東インド会社を設立し、オランダ領東インドというオランダ直轄の植民地となると、以降インドネシア各地で反乱が起き、アチェ王国ではパンリマ・ポレム(Panglima Polem)9世率いるアチェ軍がトゥク・ウマール(Teuku Umar)を中心としてオランダ軍とゲリラ戦を戦ったのが、30年に渡るアチェ戦争(1873年~1904年)です。
同じく北スマトラのバタック地方では、シ・シンガ・マンガラジャ(Sisingamangaraja)12世は、1878年からオランダ軍とゲリラ戦を繰り広げました。
シ・シンガ・マンガラジャとパンリマ・ポレムという北スマトラの抗植民地支配の2人の英雄の名前は、南ジャカルタのスディルマン通りを南下してブロックMまで繋がる道路に付けられています。
トゥク・ウマール通りは、ジャカルタの場合はメンテン地区の外国公使や政治家、外交官宅が並ぶ閑静な高級住宅街を抜ける道路ですが、バリ島の場合はデンパサールとクタ地区を結ぶ幹線道路となっています。
西スマトラのミナンカバウではイマム・ボンジョル(Imam Bonjol)指揮する反オランダ植民地支配勢力とオランダ軍との間でパドリ戦争(1821年-1837年)が起きました。
同じころ当時最大の国内王朝だった新マタラム王朝の領土は削減されていき、これに反抗したジョクジャカルタ家のディポヌゴロ王子(Pangeran Diponegoro)が指揮したジャワ戦争(1825年~1830年)は民衆の支持を受けて、ジャワ島全土に拡大しました。
ホテルインドネシア前広場からメンテン方面に伸びるイマム・ボンジョル通り(Imam Bonjol)と、その先でサレンバ手前まで伸びるディポヌゴロ(Pangeran Diponegoro)通りに繋がります。
僕の中でディポヌゴロ通りと言えば、バリ島で一時ブティックを開いていたデンパサールのラーマヤナデパート前の通りで、イマム・ボンジョル通りと言えば、2000年に発生したフィリピン大使公館前でのイスラム過激派による爆弾テロの印象が強く、当時Thamrin通りにあった会社のオフィスで窓ガラスが揺れるほどの爆発音を聞いてびっくり、500m先のMandiri銀行ビルの窓ガラスが割れていたのを覚えています。
このようにスマトラ島やジャワ島でオランダ植民地支配に対する抵抗がありましたが、最終的にはオランダ軍に制圧され、コーヒーや香辛料のプランテーション栽培を中心とした植民地支配が確立しました。
日本統治時代以降(現代)
ジャカルタの中心部、ホテルインドネシア前広場から北に延びるのがタムリン通り、南下するのがスディルマン通りであり、タムリン(Thamrin)は民族主義思想家の中心、スディルマン(Jendral Sudirman)は大日本帝国陸軍が創設した郷土義勇軍(PETA)の初代司令官として独立戦争を戦った国軍の父と称される人です。
1965年9月30日未明から10月1日にかけて、共産党(PKI)に近いスカルノ大統領新鋭部隊配下の決起部隊が自らを革命評議会と名乗り、大統領排除計画を立てたという疑いで6人の国軍将校を拉致して殺害し、Lubang Buayaに遺棄する事件が発生しましたが、このとき犠牲になった一人がアフマッド・ヤニ(Ahmad Yani)司令官です。
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インドネシア政治史上パワーバランスが変わった反共産9月30日事件
インドネシア共産党によるクーデーター未遂である9月30日事件でスカルノ大統領を支えた共産勢力と民族主義勢力とのパワーバランスが崩れ、3月11日政変後のスハルト政権でインドネシアは完全に反共産路線に傾くことになりました。
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私がインドネシアに来た1997年、Blok Mのカラオケ屋のお姉さんに連れられて、9月30日事件の現場にある「パンチャシラ・サクティ」記念碑(Monumen Pancasila Sakti)と「共産党の裏切り」博物館(Museum Penghianatan PKI)を見学したのですが、当時はまだスハルト政権下末期、親共産主義を自負するお姉さんは政府機関に知られたら逮捕されてもおかしくはない時代だったのですが、どういう意図で共産党の非道な行為を誇示するプロパガンダ的展示物を、日本人の私に見せたのかいまだに分かりません。