初代大統領スカルノは1965年の9月30日事件と3月11日事変後にスハルトに政権を委譲。1998年の暴動による社会混乱を機に副大統領のハビビが大統領に昇格。1999年の自由な政党活動の下での総選挙では闘争民主党が第一党となりましたが大統領指名選挙でワヒド大統領が誕生しました。
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インドネシアの歴史
「中世から近代までの王朝」「植民地支配と独立まで」「歴代大統領政治史」という3つの時系列でインドネシアの歴史を区切り、インドネシアに関わり合いを持って仕事をする人が、日常生活やビジネスの現場で出会うさまざまな事象のコンテキスト(背景)の理解の一助となるような歴史的出来事についての記事を書いています。
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インドネシアの歴代大統領の決まり方
来年の大統領選挙(Pemilu Pilpres Pileg Indonesia 2019)に向けての選挙運動(Kampanye)を解禁するにあたり、投票用紙に印字される順番はジョコウィ現職大統領・マフル副大統領候補組が1番、プラボウォ大統領候補・サンディアガウノ副大統領候補組が2番と決まりました。
大統領選挙Pilpres(Pemilihan Presiden)と立法府(DPRとDPD)議員選挙Pileg(Pemilihan Legislatif)と地方議会議員選挙(DPRD)を一緒に行う、いわゆる総選挙(General Election)です。
- DPR(Dewan Perwakilan Rakyat)国民代表議会で議員数575人から成る立法府。日本の衆議院に近い。
- DPD(Dewan Perwakilan Daerah)地域代表議会で35州のDPRDから各4名ずつ選出するので議員数140名。日本の参議院に似て非なるもの。
- DPRD(Dewan Perwakilan Rakyat Daerah)地域国民代表議会 日本の地方議会みたいなもの。
1999年に初めて自由な政党活動が解禁された中で、国民全体が大いに盛り上がった総選挙が行われ、国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)内で大統領選挙が実施された結果、グス・ドゥル第4代インドネシア大統領が誕生しましたが、国民による直接選挙で大統領が決まるようになったのは、2004年の大統領選挙でスシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono 通称SBY)氏が、当時の現職メガワティ大統領を破って、第6代インドネシア大統領に就任した時が最初です。
- スカルノ大統領 1945年
8月17日独立宣言後 - スハルト大統領 1965年
9月30日事件クーデター沈静後 - ハビビ大統領 1998年
スハルト氏退陣に伴い副大統領から昇格。 - グス・ドゥル(ワヒド)大統領 1999年
政党活動が自由化され政党が乱立する状況で行われた総選挙の結果、第1党PDI-P、第2党ゴルカル党、第3党PKBという状況での、MPR内での大統領指名選挙後。副大統領にメガワティ氏。 - メガワティ大統領 2001年
グス・ドゥル大統領弾劾に伴い副大統領から昇格。 - SBY(ユドヨノ)大統領 2004年
最初の国民による大統領直接選挙で現職メガワティ氏を破る。2009年もメガワティ氏を破り再選。 - ジョコウィ大統領 2014年
ソロ市長、ジャカルタ特別州知事を経てプラボウォ氏を破って当選。
スハルト大統領退陣1998年5月
自分がインドネシアに初めて来たのが1997年10月、まだスハルト政権の一党独裁の時代で、赤く若干小さめの100ルピア札や、緑が鮮やかなオランウータン図柄の500ルピア札が流通する中で、最高紙幣の5万ルピア札に現役大統領が印刷されていることから、独裁国家とはこういうものかあと感心したことを覚えています。
32年間続いていたスハルト政権では、KKN(Korupsi汚職・Kolusi談合・Nepotisme縁故主義)が蔓延し、政治・行政面で多くの問題を抱えていたものの、経済面でのインドネシアの安定的発展は評価され、「ASEANの盟主」として国際社会に認知されていました。
東京の銀行系システム会社から、ジャカルタのIT会社に転職先を決めたのが1997年7月で、ちょうどタイ通貨危機に連鎖して発生したインドネシア通貨危機(krisis moneter 略してクリスモン)により、インドネシアルピアもあれよあれよと下落した結果、ルピア建ての給料の価値が円換算で4分の1にも目減りしました。
1998年には燃料(BBM Bahan Bakar Minyak)価格が急騰し、タクシーに乗るたびに初乗り料金が値上がりするような感覚で、9つの生活必需品Sembako(Sembilan Bahan Pokok)の値上がりに一般庶民の不満が募り、スハルトファミリーだけが私腹を増やしているというような批判が公然と聞かれるようになり、連日学生を中心としたデモがMPR前に集結し、政治の不安定と経済混乱からのReformasi(改革)を訴える行動がヒートアップしていく中、忘れもしないジャカルタ暴動(Kerusuhan Mei 1998)につながりました。
当時はKuninganから南ジャカルタのスミットマスビルにある客先のBank Sumitomo Niaga(現在のBank Sumitomo Mitsui Indonesia)までタクシーで直行直帰していましたが、スマンギ交差点近くのアトマジャヤ大学での学生集会が日に日に激化していくと、夕方帰宅時間のスディルマン通りの交通は、デモの影響でほとんど麻痺状態になっていました。
タクシーがないのでスディルマン通りを歩いて帰るわけですが、途中のアトマジャヤ大学前では、連日学生デモ隊と警察が対峙しており、大勢の野次馬に混じって見学している最中に突然甲高い乾いた銃声が数発鳴り響き、逃げ惑う野次馬に混じって自分もIBM Think Padの入ったカバンで頭を防御しながらビルの裏に逃げ込みました。
そして5月13日の午前中、いつものようにスミットマスビルで仕事をしていると、タムリン通りにあった会社から「車で迎えにいくので外に出ないように」という電話をもらい、何事かと思い窓の外を見たときには、既にあちこちから焼き討ちによる煙が立ち上っており、閑散としたスディルマン通りの北から、フロントガラスを破壊されたセダンが走ってくるのが見えました。
スミットマスビルの裏Senopati通りからMampang方面に向かうも、交差点に群集が集まっているのが見えたので即Uターン、大型スーパーGOROから略奪したばかりの戦利品をカートで運ぶ餓鬼の群れを尻目に、ところどころに集結している群集を避けながら徘徊すること4時間あまり、明らかに暴徒ではない学生のデモにまぎれてスディルマン通りを北上し、装甲車が行き交う戦場映画さながらの状況の中で無事Kuninganの自宅に戻りました。
政治経済の混乱に加え、暴動による治安の悪化に対する国民の不満に屈する形で、5月21日にスハルト大統領は辞任会見をしました。
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インドネシアで繰り返される暴動と世相を反映する秀逸な流行語
9月30日事件後の共産主義イデオロギーの脅威から国を守るという大義名分による暴動、スハルト体制終焉に事変の再現を狙い中華系インドネシア人をターゲットとした扇動による暴動、今回の暴動では同じ手法での扇動が民主主義国家インドネシアでは通用しないことが証明されました。
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ハビビ政権 1998年5月~1999年10月
テレビで生中継されたスハルト大統領による退陣演説はまだ記憶に新しいところですが、最後のスハルト政権で副大統領だったハビビ氏(B.J. Habibie)が第3代インドネシア大統領に昇格しました。
それまで大統領たるものジャワ人で軍出身でイスラム教徒という3要素が必須と言われていましたが、ハビビ大統領は非ジャワ人(スラウェシ島出身)で非軍人のイスラム教徒で、政治家になる前はドイツの航空会社メッサーシュミットの副社長をしていた人です。
技術者出身の経営者であるハビビ大統領の演説は、インドネシア語の最大の特徴である「抑揚」と「溜め」を存分に効かせたメリハリのあるもので、インドネシア語ってカッコいい、自分もハビビ大統領の演説ようなプレゼンができるようになりたいという思いでインドネシア語を一生懸命勉強したものでした。
ハビビ大統領は暫定政権としてのつなぎ役として過小評価される場合が多いですが、権力集中独裁国家から近代民主主義国家への移行への最初の道筋を立てたという点で、重要な役割を果たしたと思います。
スハルト大統領の7期32年に渡る独裁政権を引き継いだハビビ政権は、法の下で職能団体(Golongan Karya)として特別扱いされていたゴルカル党Partai Golkarを、ただの一政党に格下げする政党法・選挙法を立法(法の制定)ました。
1945年の独立宣言時に作成された憲法では、主権は国民協議会(MPR)にあると規定されており、MPRの下に立法府としての国民議会(DPR)、行政府としての大統領、司法府としての最高裁判所、会計検査院(BPK)、最高諮問会議(DPA)という国家高等機関を置き、これら5つの国家高等機関に国家権力を分配するという形式を取り、これをインドネシアでは五権分立と呼ばれていました。
- 国民協議会(MPR)
- 国民議会(DPR)
- 大統領
- 最高裁判所
- 会計検査院(BPK Badan Pemeriksa Keuangan)
- 最高諮問会議(DPA Dewan Pertimbangan Agung)
しかし実際はMPRの議員の多くをゴルカル党員である大統領任命議員が占めることで、大統領に権力が集中することとなり、その結果初代大統領スカルノ政権は20年、スハルト政権は32年という長期政権になりましたが、その特権をゴルカル党出身であるハビビ大統領が法改正により放棄させました。
その結果1999年6月の自由な政党活動の下で行われた総選挙では、メガワティ氏率いる闘争民主党PDI-P(Partai Demokrasi Indonesia-Perjuangan)が第一党となり、ハビビ政権は自らの手でゴルカル党による一党独裁時代を終わらせたたことになり、これが後の憲法改正による国民主権への動きと2004年に行われる大統領直接選挙に繋がっていきます。
グス・ドゥル政権 1999年10月~2001年7月
1999年に政党活動が自由化され、多くの政党が乱立する中で行われた総選挙は、インドネシア全土での一大お祭り騒ぎとなり、当時は社内のインドネシア人の中でもPDI-P支持者が多数派、理屈っぽいインテリ派はアミン・ライス氏の国民信託党PAN(Partai Amanat Nasional)支持、敬虔なイスラム教徒は国民覚醒党PKB(Partai Kebangkitan Bangsa)支持といった具合に日常の話題は選挙一色になり、今考えると民主主義国家では当たり前の権利である「自分の支持する政党に投票できる」ということが、普通にインドネシア人にとっては非常に新鮮だったのだと思います。
選挙の結果、PDI-Pが第1党、ゴルカル党が第2党、PKBは第3党となり、国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)内での大統領指名選挙ではゴルカル党に対抗してPDI-PとPKBが連立する中で政治の力学が働いた結果、インドネシア最大のイスラム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU Nahdlatul Ulama)の議長だったグス・ドゥル第4代インドネシア大統領が誕生したときは、1994年の自民党・社会党・さきがけ連立政権で誕生した村山総理大臣のことを思い出しました。
グス・ドゥル大統領は糖尿病の合併症のせいで目が不自由で、ブツブツとつぶやくようにユーモアを交えた庶民的な話し方をする人でしたが、インドネシアの政治に文民統制(シビリアンコントロール)をもたらした功労者であり、スハルト政権時代に政治支配の土台を支えていた軍をいかにして政治から切り離すかを政権の最大課題と位置づけていました。
政治治安問題担当調整大臣だったウィラント元国軍司令官を解任し国軍と対立する中で、結局自身の汚職スキャンダルが足かせとなって2001年7月にMPRにて大統領罷免が可決され、副大統領のメガワティ氏が大統領に昇格しました。
自分はその当時、3年半勤務したジャカルタのIT会社を退職し、バリ島で家具と雑貨の輸出会社を設立し独立した時期であり、バリ島に移住したばかりの2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが発生し、クタの日本食レストランでWTCビルに飛行機が突入する映像を呆然と眺めていた思い出があります。
メガワティ政権 2001年7月~2004年10月
メガワティ大統領はスカルノ初代大統領とファトマワティ第一夫人の長女であり、スカルノ大統領の母親がバリ人であったことから、バリ島には未だにメガワティ氏率いるPDI-Pの強力な支持基盤があり、政情不安定なインドネシアの中にあってもバリ島だけは安全でテロも発生したこともないという安全神話がありました。
その安全神話が崩れたのが2002年10月、当時自分はデンパサールに家とオフィスを借りて家具と雑貨の輸出の会社として独立したばかりでしたが、10月12日夜11時頃にドカーンという地響きとともに窓ガラスが大きく揺れ、バリ島でも珍しく地震があるもんだなと、それほど気にせず寝てしまいましたが、翌朝実家の母親からの電話で前夜の爆音がクタでの爆弾テロの音だったことを知りました。
メガワティ大統領の任期中にはインドネシアでも記憶に残る3つの大きなテロが発生しており、イスラム教徒の割合が9割近くを占めるインドネシアで、イスラム過激派に対する対処は一歩間違うとイスラム軽視のイメージを与える繊細な問題でしたが、2002年のバリ島のテロを契機に、インドネシアは完全にアメリカのテロとの戦いに同調する流れに乗りました。
- 2002年10月 バリ島KutaのレストランRAJA, レギャン通りのSari club前
- 2003年8月 ジャカルタのKuninganのJWマリオットホテル。2009年7月に2度目の爆弾テロ。
- 2004年9月 ジャカルタのKuninganのオーストラリア大使館
クタの爆弾テロ直後のバリ島は観光客が激減し、レギャン通りも閑古鳥が鳴いていましたが、日本の家具屋さんがインドネシアへの渡航を控えると、必然的にバリ島在住の自分に仕事が生まれるという流れとなり、島内の観光業が打撃を受けるなかで、自分の会社の景気が一番いい時期となりました。
スハルト政権が退陣してからのインドネシアの政治史の流れの中には、いくつかの重要な課題があるのですが、メガワティ政権では1991年から3政権に渡ってつづいてきた憲法改正の最終仕上げがなされ、国家の権威(wewenang)の最高機関は国民評議会MPRから事実上DPRに移り、行政(eksekutif)、司法(yudikatif)、立法(legislatif)が権力分立のため分離され、実行主体の最高権力は行政が大統領、司法が最高裁判所MA(Mahkamah Agung)、立法が国民議会DPRという三権分立が確立しました。
- 自由な政党活動
ゴルカル党の一党独裁から複数政党による民主政治化。 - 文民統制(シビリアンコントロール)
政治からの国軍の影響を排除。 - 憲法改正
民主国家としての国民主権と三権分立の確立。 - テロとの戦い
- 貧困削減と雇用拡大による経済成長
- 汚職の追及
自分のメガワティ政権に対する印象ですが、テロに対する断固たる対応は逆にアメリカを中心とした西側諸国への忖度と見られ、憲法改正による国民主権の回帰という民主国家としての重要な仕事も実務型の成果でどうしても地味で目立たず、そこに来て独裁政権化で蔓延していた汚職が民主化によって一気に目に見える形で追求されるようになり、対応が後手に回ってしまった結果、汚職追求に対して甘い政権という風潮が出来てしまったように思います。
時代はテロとの戦いや汚職撲滅を実行できる強い大統領を求めており、2004年に行われたインドネシア初の国民による大統領直接選挙では、まさしく国民が求める理想の人物像であった元陸軍大将スシロ・バンバン・ユドヨノ(通称SBY)氏が、メガワティ現職大統領を破って第6代大統領に選ばれました。
SBY(ユドヨノ)政権 2004年10月~2009年7月, 2009年7月~2014年10月
2004年のインドネシア初の大統領直接選挙ではスハルト政権化の国軍司令官だったウィラント氏がどうしても独裁政権時の国軍の強権イメージを払拭できず、同じ国軍出身でもクリーンなイメージ戦略を出した民主党Partai DemokratのSBYが国民の強力な支持を得ました。
インドネシアでは「スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領」という長い呼称は好まれず、単に「エス・ベー・イェ-」という略語でしかも敬称なしで呼び捨てのほうが、かえって愛称がこもった雰囲気が出ます。
ウィラント氏は1998年5月にスハルト大統領に国軍の安全の保障を担保に辞任を進言し、ハビビ政権下でジャカルタ暴動や国軍による人権侵害の疑惑のあったプラボウォ氏を国軍から解任した、政治史上における重要な役割を果たした人物ですが、グス・ドゥル政権とジョコウィ政権で政治治安問題担当調整大臣を勤めたはしたものの、自身の国軍での人権侵害疑惑が付きまといインドネシアの政治史の波に乗り切れていない感じがします。
SBY大統領が誕生したものの、支持母体の民主党の議席数は550議席中57議席のみで、ユスフ・カラ副大統領の政党であるゴルカル党の支持がなければ、国民代表議会DPRが立法府としてまともに機能する環境ではありませんでしたが、ゴルカル党の党首選挙で反SBYの立場だった現職のアクバル・タンジュン氏がユスフ・カラ副大統領に負けたことで、ゴルカル党議員の支持を背景に一気に安定政権に変わりました。
グス・ドゥル政権とメガワティ政権で続けて政治治安担当調整相を歴任していただけあって、テロの防止と撲滅、2002年に独立した東ティモールに続いてインドネシアからの分離独立を目指すアチェ自由運動(GAM Gerakan Ache Merdeka)の沈静化への期待は大きかったのですが、経済面では完全失業率は思うように下がらず、インフラ投資は歳入不足で増やせず、大統領就任直後の12月にスマトラ沖地震は発生するは、2008年のリーマンショックの影響でインドネシアの株価は暴落し経済は停滞するはで、時勢も悪かったとはいえ大きな成果は出ませんでした。
個人的には2005年くらいからはバリ島でのビジネスが斜陽に向かい始めた時期で、2008年に会社をたたんでジャカルタに出戻ってすぐに、今度はリーマンショックによるインドネシア株暴落で痛い目に会いましたので、自分にとってはインドネシアでの明るい思い出が少ない時期にあたります。
ジョコウィ大統領 2014年10月~2024年10月
そして2014年の大統領選挙は社会現象といっていいほどのジョコウィフィーバーで、客先に向かう車の中で会社の運転手からジョコウィ氏が如何にすばらしいかということ、プラボゥ氏如何に邪悪かという話を毎日聞かされて参りましたが、あれはジョコウィ氏の持つ「私利私欲のない普通のおじさん」のイメージと「その実強力なリーダーシップを発揮する実務家」というギャップにキュンときた一般大衆の一種の集団催眠だったのではないかと思います。
「ちょいワルおやじ」「脱いだらスゴイ」といったギャップにキュンとするのは人間の本性のようなもので、これに酔った一般大衆を見方につけたジョコウィ氏の圧勝かと思いきや、結果はジョコウィ氏53%に対してプラボウォ氏47%の僅差となり、プロボウォ氏のFacebookやTwitterなどのSNS戦略、バークリー系列テレビ局のTV Oneを使ったメディア戦略の効果が存分に発揮された結果となりました。
おそらく40代以上のインドネシア人にとってのプラボウォ氏の印象は、スハルト大統領の娘シティと結婚し、陸軍特殊部隊コパスス(Komando Pasukan Khusus=Kopassus)のトップとして、スハルト政権に批判的なイスラム指導者(Kyai キアイ)の連続失踪事件や、暴動時の略奪の煽動疑惑などに関与しているのではないかという疑念からくるトラウマが強いと思いますが、今となっては20年も前の事件であるため、当時未成年だった今の20代~30代の有権者にはこのトラウマは薄く、排外的保護主義でナショナリズム色の強いプラボウォ氏の主張に惹かれる人も多いのかもしれません。
ジョコウィ大統領は清廉潔白なイメージは相変わらずですが、それだけにこれまでの任期中に主だった成果が出ていないことが目立ってしまい、誰にでもわかりやすい「インドネシア人のためのインドネシア」というプラボウォ氏の主張は、アメリカのトランプ大統領と重なるところもあり、2019年4月の大統領選挙は過去20年間積上げられてきたインドネシアの民主化の成果に対する国民の審判が下る選挙になるはずです。
※2024年2月に行われた大統領選挙では、はからずしもプラボウォ氏の圧勝に終わり、インドネシアの若者層は、候補者が暴動を扇動した『特定の勢力』とも疑われていることは問わないという審判を下したともいえるわけですが、当時の記憶が残る人間にとっては、10月に就任する新大統領を複雑な気持ちで見守ることになります。