民族とは言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団であり、歴史的運命とか同族意識とか、解釈でどうにでもなる主観的基準でグループ化されたものに過ぎません。
-
インドネシアの人々
インドネシアは2億6千万人の人口のうち4割がジャワ島に集中しており、300あると言われる民族の中でジャワ人が45%、スンダ人が15%を占め、総人口の9割がイスラム教徒であり、多民族他宗教のインドネシア人の求心力となるべく制定されたのがパンチャシラです。
続きを見る
インドネシアの民族の定義
インドネシアはよく多民族国家と言われますが、資本も人材も情報もオンラインとオフラインでフラット化されつつある現在のグローバル社会で、純粋な単一民族国家などは存在せず、仮にあったとしても純血種の集団を主張することは、排他的であると後ろ指を指されはすれど、自慢にはならない時代なのかもしれません。
そもそも大前提となる「民族」の定義すら非常に曖昧で「言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団(ウィキペディア)」というように、歴史的運命とか同族意識とか、解釈でどうにでもなる主観的基準でグループ化されたものに過ぎません。
実は僕自身も最近まで「民族」の定義とは「DNA型に由来した類似の身体的特徴を持つ遠い血縁集団」くらいに思っていたのですが、その理由は日本の民族構成が大和民族、アイヌ民族、琉球民族、在日韓国朝鮮人という、DNA型で明確に区分けされた民族集団だったからです。
インドネシアの民族の場合、例えばジャカルタ近辺に昔から住んでいたOrang Betawi(ブタウィ人)と呼ばれる人々は、Suku Betawi(ブタウィ族)という一つの民族カテゴリとして区分されるのが一般的ですが、これはDNA型の特徴で定義されたものではありません。
17世紀の経済の中心であったバタビアに集まって定住した人々の間で混血が進み、一つのコミュニティが形成される過程で、言語や風習に地域性が生まれたものだと解釈しています。
インドネシアで民族を分ける基準はDNAよりもアダット(Adat)であり、これは生活共同体での親族や社会の過去の慣習や規範とのことで、例えばジャワ人とスンダ人はDNAは同じだがアダットが異なると言えます。
よく言われる「スンダ人は色白が多い」というのは事実かもしれませんが、これは日本の東北地方の人々が色白と言われるのと同じく、涼しい地域に住んでいた祖先をルーツにすると、もち肌の美人が多くなる傾向を言っているだけであり、日本では東北人だけで民族カテゴリを形成することはありません。
このようにインドネシア人全体の中では、中華系(漢民族)やパプア人(オーストラロイド)のように、DNA型の違いに由来する身体的特徴が顕著な民族以外は、地域の生活環境の中で育まれた行動様式を基準として区分けされており、比較的緩やかであると言えるのではないでしょうか。
これがインドネシアに存在する民族の数は一般的には300、統計局(BPS=Badan Pusat Statistik)調査によると1,340も存在するとされる理由ではないかと考えています。
家族観や社会制度に影響される行動様式
人口2億6千万人のうち45%を占めるジャワ人の気質として言われる言葉が「幸福と調和を重視する思考が気質や行動に表れる」というもので、優柔不断でお世辞(basa-basi)が多く本音と建前を使い分ける、見栄っ張り(gengsi)、合議制(Musyawarah)や相互扶助(Gotong Royong)などの村社会の不文律の存在など、日本の村社会によく似ていると思います。
人口の15%を占めるのスンダ人の場合、「スンダ人女性は働き者で外見も色白でスタイル抜群の美人さんが多い」という評判どおり、これまで一緒に仕事をした経理や総務のマネージャーなど重要なポストに就いているスンダ人女性は、テキパキと仕事をこなす美人でスレンダーな女性が多かったので、あながち間違いではないようです。
その一方で、カラワンの工場の採用担当者が「可愛らしいスンダ人の女の子が面接に来ると、まだ少女みたいな幼い顔しているくせに、離婚経験が複数回あったりすることもザラではない」と言うように、若くして離婚経験があるシングルマザーが多くいるのも事実で、この話を聞いたときカラオケ屋さんなどの遊興施設で、これまで多くのスンダ人のシングルマザーの女性と出会ったことを思い出しました。
母親を大切にするという心理は、人の道として当たり前のことだと思うのですが、スンダ人男子の場合は結婚しても親元から離れることを嫌い、それが原因となって「あなたは私とお義母さんのどっちの味方なの?」というドラマのシーンのような口論が発生しやすいとすれば、スンダ人は他民族に比べて離婚となる要因が多いと言えるのかもしれません。
このスンダ人男性の真逆の立場にあるのが母系相続社会のミナンカバウ人(ミナン人)の男性であり、親の資産(土地)はすべて女兄弟に相続されるので、何も貰えない男は一定の年齢に達すると家を出てお金を稼ぐ方法を考えざるを得なくなり、故郷を離れて商売を始めるようになる。
弊社の株主兼ビジネスパートナーであるミナン人曰く、金銭的成功を収めない限り故郷に錦を飾ることはできないという意識が人一倍強く、レバラン休暇でパダンに帰省すると、これ見よがしに金銀装飾品で身を固めた人に会うこともあるが、実際は親に心配をかけないために敢えて見栄を張っているケースも多いだけに、複雑な心境になるそうです。
ちなみにパダン人(Orang Padang)という場合は西スマトラ州の州都であるPadang出身の人のことを指し、有名なパダン料理も本来はミナン人の料理だが、誰にでも伝わりやすいように、知名度の高いパダンを冠してパダン料理と呼ばれているようです。
1945年8月15日に日本が連合国に無条件降伏し、2日後の17日にスカルノが独立宣言を行いましたが、日本の占領下にあったインドネシアは敗戦国側の立場であったことから、イギリスやオランダが独立を拒否し再び侵攻しようとした際に、パダンはインドネシアの臨時政府の仮首都とされました。
歴史的背景による人格形成
インドネシアの県(Kabupaten)が定める最低賃金UMK(Upah Minimum Kabupaten)は地域によって大きな差があり、ジャカルタ特別州や工業団地が位置するブカシ県やカラワン県の最低賃金は、中部ジャワや西ジャワ州の一部より2倍近く高いので、必然的に多くの出稼ぎ者が働いており、日常的にいろんな宗教や民族の人と付き合う機会があります。
1997年、インドネシアに来たばかりの頃、アチェ出身の敬虔なムスリムから英語を習っていたことがあるのですが、彼は毎回イスラム教とアラーの神がいかにすばらしいか、アチェは石油・天然ガス・金・大麻など天然資源が豊富でインドネシアから独立しても十分やっていけるなど、アチェ愛を熱く語っていました。
当時は自由アチェ運動(GAM=Gerakan Aceh Merdeka)の民兵が、インドネシアからの分離独立を目指して、国軍と頻繁に衝突していた時期でもあり、若干ファナティック(狂信的)な先生だなあと辟易していたのですが、インドネシアという国の奥の深さが感じられるスケールの大きい話は非常に新鮮に聞こえました。
国家との衝突によって分離主義が強まったアチェやパプア、ティモール(テトゥン族)などの民族もあれば、悠久の歴史の中で比較的平和に存在し続けてきたジャワやスンダなどの民族もあり、それぞれの歴史的背景が民族構成員の人格形成に影響を及ぼしてきたというのは興味深い話です。