インドネシアに根を下ろしたビジネス【ビジネスの方法論ではなく自分自身の振る舞いの問題】

「現地に根を下ろす」とはどういうことか?

仕事も生活もジャカルタから西ブカシ(Bekasi Barat)のスマレコン(Summarecon)に移してから半年経ちました。個人的にはこの「スマレコン」という間の抜けた語呂の響きが気に入っています。

もともと西ブカシにオフィスと住居を借りた理由は、仕事上お付き合いしていただいているCibitung、Cikarang、Karawang方面の工業団地のお客さんとの会話の中で「ジャカルタに比べてブカシは工業団地まで近いですから何かあったらすぐに飛んできますよ」というフットワークの軽さをアピールしたい思っていたからです。

ところがここ最近のJl. Tol Jakarta-Cikampekで昼夜突貫で行われているLRT(Light Rail Transit 軽量軌道交通)とTol二階建て(elevated toll road)工事のボトルネックが、西ブカシから見て工業団地方面の東に移動していることもあり、工業団地に行く分には移動が楽になるでもなく、ジャカルタのアパート住まいの時とさほど変わらず、毎日4~6時間は車の運転で消耗しています。

渋滞ポイントは工事の進捗に伴い東へ少しずつ移動していきます。

ともかく西ブカシにオフィスを置いたことによって当初のもくろみどおり、お客さんからは「ああ、西ブカシにオフィスですか。現地に根を下ろしたビジネスをされているんですね。」とありがたいお言葉をかけていただくようになりました。

しかしせっかくいただいたお言葉ですが、果たして自分はその「現地に根を下ろしたビジネス」というものが出来ているのか、そもそも「現地に根を下ろす」とはどういうことなのかについて何か消化できない漠然としたもやもや感がありました。

その原因は「現地に根を下ろす」という言葉が、インドネシア人を雇用するとか、インドネシアの原材料を使うとか、日常的にインドネシア料理を食べるとか、具体的な事例を持って明確に説明することが難しい言葉であるからです。




方法論ではなく自分自身の振る舞いの問題

スタートアップ当初から、現地スタッフを手足のように使ってビジネスを展開できる器用な人は別にして、一般的にはビジネスの立ち上げ当初は営業・技術・経理・購買などを一人何役も担って、一連の仕事の流れをある程度自分一人で完結できるパワーが必要になります。

そうなると自動的に、大きな組織の中の一員として仕事をしていた時には、対面で話す機会のなかった現地の人々と、現地の慣習の中で話をしたり交渉したりする場面が頻繁に出てきます。

例えばジャカルタ近郊の工業団地にある日系企業に営業に行くには車がないと不便ですが、運転技術が高く会社に対してロイヤリティの高いインドネシア人ドライバーを探すのは至難の業。そうなると自分で運転したほうがいいや、ということになる。

インドネシアで車を運転するということは、インドネシア人ドライバーと対等の立場になるということであり、ウィンカーもつけずに急ハンドルで割り込みをかけ、あおり運転上等、パッシングしまくりで前の車を威嚇するドライバーを、これまでは後部座席から眺める立場だったのが、今度はそれをやられる立場になるわけです。

そしてようやく工業団地の客先に到着すると、今度は正門入り口に待機しているセキュリティのお兄ちゃんから「Dari mana?(おまえ誰?)」「Mau ketemu siapa?(誰に会いに来た?)」「Sudah ada janji?(アポ取ってるのか?)」という言葉を上から目線で容赦なく浴びせられます。

これはセキュリティという職業上、車のドライバーに対して以下のような階級意識を持っているからです。

    • ハンドルを握っている人間=サプライヤーのドライバー=自分より身分の低い人間

僕自身、普段日本人というだけでインドネシア人からちやほやされるシチュエーションに慣れているため、同じインドネシア人から渋滞の道路で強引な割り込みを掛けられたり、招かれざる応対をされたりすると、気持ちの整理がつかずカーっとなって日頃自分の心の奥に隠して否定していた「優越感」とか「階級意識」とかいう、一番認めたくない汚い部分が表に出てくるのです。

  • 人間はプライドを傷つけられたときに本性が出る。

「現地に根を下ろしたビジネス」が出来ているかどうかは、ビジネスの方法論の話ではなく、現地でビジネスをする主体である自分自身の振る舞いによって判定されるものだと考えます。

  • インドネシアの風習や商習慣の中で、いろんな場面で登場してくるインドネシア人と、国籍とか職業とかのバイアスを受けず、一人の人間として関わり合いを持てるかということ

これは違う風土の国で生まれ育った人間にとって自然に身につくものではなく、意識しないと出来ない振る舞いであり、そのとき自分が戦うべき相手は未熟な自分自身の心であり、まさしく敵は自分の中にいるわけです。