ムラユ語からインドネシア語への発展の背景

2021/05/14

ジャカルタ

「唯一神への信仰(国民は必ず自分の信じる宗教を常に信仰すること)」としてイスラム教を国教としなかったのと同様に、インドネシア語が少数派のムラユ語を母体とされたことは、民主主義を志向した国家統一のために大きな貢献となったと考えられます。

インドネシアという概念が出来るまで

インドネシアは世界で稀有の魅力的な国だと思う理由は、北回帰線と南回帰線の間に横長く10,000以上の島々で構成される国土、そこにある自然と豊かな資源、そして温暖な気候の下で育まれた人懐っこい笑顔が素敵な人々がいるからで、インドネシアで何年か生活して日本に帰国した人が、また戻りたくなる理由も同じではないでしょうか?

考えてみればオランダが香辛料を求めて遠方からやってきて350年あまりも居座ったのも、大日本帝国陸軍が石油や鉱物資源を求めてインドネシアに侵攻したのも、敗戦後の日本兵が祖国に帰ることなくそのまま住み着き、独立戦争のためにインドネシアのために戦ったのも、そして僕も含めて現在も多くの日本人が愛着を持ってインドネシアに住み着いているのも、それだけインドネシアという国が魅力的で憧れの対象だったからだと思います。

インドネシアという国名、概念が公式に使われるのは1945年に独立してからで、それ以前はオランダ領東インド、今のインド付近は前方インド、インドネシア付近は後方インドと呼ばれており、カリブ海の西インド諸島に対比するように東インド諸島と呼ばれていたようです。

そしてインド諸島という言葉の代わりとしてギリシャ語のIndos(インド)とNesos(島)という言葉が合わさって、インドネシアという概念が少しずつ形成されていったようです。

1602年にオランダが「今日から東インド諸島一帯をオランダ領東インドとするぞ!」と宣言し、東インド会社の拠点があったジャワ島西部を勝手に首都バタビアと決めてからの約350年間が、いわゆるオランダ植民地支配の期間に該当するわけですが、300とも言われる民族が10,000以上の島々に住んでいる状況で、一体どれくらいの人々が「今、自分達はオランダに支配されている」と認識していたのかは興味深いところです。

その後インドネシアは苦難の歴史を辿り1945年8月17日に独立を迎えるわけですが、憲法の中で表記されるRepublic Of Indonesiaという正式名のとおり共和制ですから、君主を持たない政治体制で国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を国民が持つという、国民主権の民主主義国家を目指したわけです。

インドネシア憲法の前文となるパンチャシラの中で「唯一神への信仰(国民は必ず自分の信じる宗教を常に信仰すること)」としてイスラム教を国教としなかったのと同様に、インドネシア語が少数派のムラユ語を母体とされたことは、民主主義を志向した国家統一のために大きな貢献となったと考えられます。

ムラユ語(Bahasa Melayu)はマレー語とも言われ、マレー半島からマラッカ海峡をはさんでスマトラ島などに住むムラユ人が話す言語で、マラッカ海峡が、太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝であるのは今にはじまったことではなく、オランダ領東インド時代から世界中の人種と民族が集まり交易を行ってきた地域です。

海洋交易の様子は北ジャカルタのスンダクラパ地区にある 海洋博物館(Museum Bahari)の展示で見ることができます。人種や民族間での上下関係による敬語等の表現がないムラユ語は、意思疎通に便利な言葉であったものと想像されます。

オランダ東インド会社の拠点となった旧市街地コタ地区

オランダ東インド会社の拠点となったジャカルタの旧市街地コタ地区

ジャカルタの観光地としての魅力は、地政学的にヨーロッパや周辺アジア諸国との交易上、重要な役割を果たしていた歴史にあり、旧市街地コタ地区はオランダ統治時代の商業の中心地で、ファタヒラ広場付近にはバタビア時代のコロニアル様式の建造物が多く残っています。

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正式国語としてのインドネシア語が形成される過程

オランダ統治時代が350年ほど続いた後、大日本帝国陸軍が南方作戦でオランダ領東インドを侵攻し日本統治時代に入り、第二次世界大戦の日本の敗戦の2日後にインドネシアが独立宣言を発表しオランダ主権の復帰を拒否したものの、連合国側にあったオランダやイギリスがこれを承知せず、「夢よ、再び」とばかりに再度統治を試みるも、勇敢な祖国防衛軍(PETA)を中心としたゲリラ戦の抵抗にあい、1949年にアメリカの仲裁の下でインドネシアの独立を認めるハーグ協定が結ばれたというのが植民地支配終結までの流れです。

1945年憲法の中でムラユ語を母体とした言語をインドネシア語とすると決定したことは、ジャワ人中心の国ではなく全く新しい国を造るということであり、その決定過程においてスカルノ大統領の母親がバリ人だったこと、副大統領のハッタが西スマトラのブキティンギ(Bukittingi)出身のミナンカバウ族であったことが、新しい国家で「多様性の中の統一」を実現するのに最適な言語がどれかを、客観的に評価する上で影響したものと考えます。

インドネシアの地方言語数は746個あり、その中で文字継承可能言語はジャワ語、スンダ語、アチェ語、バタック語、ムラユ語、バリ語、ブギス語、ランプン語、ササック語の9つと言われ、民族間の意思疎通を円滑に進め、身分階級による分断を排した民主的な言語という条件を満たすのがムラユ語だったということになります。

よく話題に挙がるマレーシア語とインドネシア語の違いですが、1824年の英蘭条約でマラッカ海峡を境にイギリス領とオランダ領に分断された後に、元々同じムラユ語が約200年間別々の進化を遂げた結果が今の状態なので、インドネシア人に「マレーシア語理解できますか?」と聞くと、だいたい理解できると答える人が多いです。

インドネシア語とマレー語は、同じムラユ語発祥でもマラッカ海峡で分断されてインドネシア側はオランダ語とかジャワ語とかスンダ語の影響を受けて、マレーシア側は英語とかその他ローカル言語の影響を受けて、それぞれ200年ほど熟成されたと言われてはじめて、大体の違いのレベルが想像できました。

※典型的な違いの例として時間表現があるとご教示いただきました。英語(日本語も)の9時半は、インドネシア語でsetengah sepuluh(10時の30分前)とオランダ式で表現します。

「ヤバい」「つらみ」のような若者言葉や「ディスる」「萌え」のようなネットスラング起源で新語が生まれるのはインドネシア語の場合も同じですが、インドネシア語の特徴として接頭辞と接尾辞で語幹をはさむことにより、形容詞を動詞化したり名詞化したりと、単語のバリエーションを増やしていく性質があり、これらが流行語(kata kekinian)になることで自然にインドネシア語として発展していったものと考えられます。