インドネシアで植物栽培から学ぶ宮本武蔵の人生の教訓

2020/04/25

ツノガエル

宮本武蔵が剣を置いて農業を始めた目的は、自分の存在への固執を捨て己に勝ち、剣から得た悟りで人を生かすことでした。同様に在宅勤務の中で自然界の植物に対して自分が出来ることの限界を知り、感情をコントロールできない自分の弱さを思い知ることには意味があるはずです。

ハイビスカス

インドネシアの植物

「インドネシアの植物」と聞いて思い浮かぶのはバリ島を象徴する花でもありお供えものチャナンに添えてあるフランジパニ、灼熱の熱帯気候を体現するようなハイビスカス、傘替わりに使えそうな大きな葉っぱで有名なアロカシアなどです。

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宮本武蔵が剣を置いて農業を始めた訳

ジャカルタのPSBB(大規模社会制限)の5月22日までの延長が発表され、ブカシ県やカラワン県も追従する可能性が高まり、まだしばらく在宅勤務が続きそうな気配ですが、時間だけは有り余る今こそ、吉川英治の長編小説『宮本武蔵』を読み直しています。

武蔵は吉岡剣法の清十郎と伝七郎の兄弟を倒し「一乗寺下り松の決闘」で門弟一同のみならず名目人である幼い源次郎まで斬り捨てて世に名を上げるのは有名な話ですが、その後突然富士山の麓の坂東平野で農業を始めるくだりがあります。

農業を始める当時の武蔵の心境は、剣で人に勝つことだけを考えてきたものの、おのれに勝ち人生に勝ち抜くという方向に心が傾き、それだけではなく剣から得た悟りを持って人を生かすことが出来ない筈はないと考えるようになります。

これはつまり荒れ地で痩せた土地を開拓し排水路を引き水田として開墾し、水害に抗う中で人間は自然に抗うことはできない小さな存在であることを知り、これにより自分の存在に固執することの無意味さ、我執(がしゅう)を捨てることで自己完成を目指し、さらに村の治安を安定させ、村民に対して子孫のために田畑を残すという信念を持たせるということです。

剣で人に勝って、自分に勝って、さらに人を生かすという壮大な理念であるわけですが、この地味に続く農業のくだりはその後の「巌流島での戦い」で、絶対的な武芸の天才である佐々木小次郎に勝つことが出来た理由として重要な描写であると考えます。

植物の栽培から学ぶことは多い

WFH(在宅勤務)が続くと僕の場合は気分転換に植物の世話をするのですが、枝切りハサミで芝を刈ったり、雑草を抜いたり、ポットを交換したり、害虫駆除したりとやり始めるときりがありません。

大分おこがましいことを言いますが、宮本武蔵が大自然の前におのれの無力さを知ることで剣術を一段上に高めたのと同じように、僕の場合も植物と向き合っているときは無心であり、あとで考えたら意外と人生のヒントになるようなことを得ていたりします。

例えば植物の栽培方法はネットで調べてた情報に基づいてそのまま実践してもうまくいかないことが多く、その理由は気温とか日照量とか栽培条件が違うからであり、現在借りている家の敷地内でも場所や時間帯、季節ごとに環境条件はは変わります。

しかしそれ以上に植物を枯らす一番大きい理由は育てる人間の心理にあり、乾いた土を見れば人間は本能的に水を多く撒きたくなりますが、結果的にそれが根を腐らせることになりかねません。

植物は世話が疎かになると確実に元気がなくなりますが、一生懸命世話しすぎても枯れたりするわけで、むしろ出張で水撒き出来なかったとか肥料やるの忘れた後に青々としていたりします。

しかも植物は何故か水道の水では満足しなくて、たっぷり水を撒いてあげてもいまいち覇気がなかったりするのですが、ほんの小一時間雨が降った後の翌日にはシャキンと元気になるのが不思議なものです。

命がけで水害から田畑を守り、野武士の襲撃から村を守り村民の心を動かした武蔵と比較するには及びませんが、日々植物の世話をすることで人間として自然界の植物に対して自分が出来ることの限界を知り、感情をコントロールできない自分自身の弱さを思い知ることで、植物を枯らさないための何かいい方法はないかと日々考えるのです。

観葉植物の鉢植えを続けていると、ある時期に肥料を撒いても元気が回復しなくなるのですが、土が固まって水捌けが悪くなっていたり、鉢のサイズの限界に達して下から根が出てきたりしています。今日は葉の色が悪い、茎が細く倒れやすい、蕾のまま中折れして落ちるハイビスカス13鉢を植え替えます。

武蔵が剣を置いて鍬を持ったが如く、僕の場合はストレッチにより柔軟性を高め心の安定を得る、本を読むことで先人の知恵を学び海外の事例を知る、コーヒーを淹れることでインドネシア各地の肥沃な風土で育まれた豆の風味を感じる、同じように自宅でスコップで植物の植え替えをしハサミで芝を刈る中で、人生の修行も続いていきます。