インドネシアでのITビジネスがコロナ禍の影響を受ける中で、半年間の心境の変化を振り返りました。絶望し暗中模索する中で、バリ島爆弾テロやリーマンショックによる不景気の体験が役立ったように、今回のコロナ禍による体験も来るべき次の不況への備えとなるはずです。
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思考と感情
人間は弱い生き物ですから感情に支配されて勘定の赴くままに意思決定したり行動したりするものですが、結果は得てして非合理的なものになりがちなので、相手の感情を汲み取りながらも自分は感情に流されない合理的な思考訓練が重要だと考えます。
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「コロナ禍」という言葉が一般化したのが半年前
日本で新型コロナウィルスに対する意識が高まったのは、2月4日に横浜港に寄港したダイヤモンドプリンセス号でクラスターの発生が確認された頃だったと記憶していますが、「コロナ禍」という言葉がはじめて全国各紙で使用され一般的になったのは4月中旬ですから、10月中旬にあたる現在まで半年が経ったことになります。
弊社には3月19日に労働省(Dinas Tenaga Kerja dan Transmigrasi)から、新型コロナウィルスに関する現地調査という名目の不法就労取り締まりのための抜き打ち検査が入り、3月末にはオフィスを閉鎖して在宅勤務に切り替えるよう指示を受け、4月に入りジャカルタのPSBB(大規模社会制限)が始まる頃が、弊社にとってのまさしくコロナの禍(わざわい)の始まりでした。
朝一で労働省(DISNAKER)から検査が入り直近の出入国日や咳の症状が出た日を調査、以下書類を求められましたのでご参考までに
1.会社設立証明書
2.労働報告義務 WLK
3.KTP(家族全員)
4.NPWP
5.営業許可書 (SIUPまたはNIB)
6.就業規約PP(従業員10名以上の場合)
7.従業員の給料一覧
8.BPJS支払いの証拠
今考えると最初の4月~5月の2か月は、突然事業環境が変化し従来どおりの営業活動で全く成果が出ず戸惑っていた時期であり、次の6月~7月はあの手この手で先の見えない現状を打開するために暗中模索していた時期であり、後半の8月~9月になって過去の自分の考え方を内省していた時期だったように思えます。
4月~5月:魚の居ない池に釣り糸を垂らしているような時期
当時あった仕事の引き合いがペンディングになり、新規のIT化の案件の話がゼロになり、メールや電話でのインバウンドのお問い合わせが無くなり、メールでのアウトバウンドの営業に対する反応が芳しくなくなるまでの事業環境の変化は、ジェットコースターの頂上から一気に底辺に落ちるかのようにあっという間に起こってしまいました。
自分の置かれている状況すらよく理解できておらず、ただ従来どおりのやり方を続けるだけだった最初の2か月間は、例えて言えば「魚の居ない釣り堀に釣り糸を垂らしている」ような感覚で、先行きの見えない中であせりと不安だけが募っていきました。
6月~7月:暗がりの中を手探りで進む時期
いつかコロナ禍が終了した後に、振り返ってみて一番辛かったと言うと思われるのがこの時期がであり、コロナ禍に合わせた業務改革の必要性についてのウェビナーを開催する一方で、自分の会社ではどのように収益改善や業務改善を行ったら良いのか分かっていないという矛盾を抱えたまま、とにかく何かやってみる、やりながら方向修正していくというフォワード志向で暗中模索している状態でした。
僕の場合、何か新しいものを生み出すための思考パターンとして、過去の自分の経験や、ネット上の海外の事例を抽象化し、コロナ禍の中のインドネシアで実現するための具象化を行うのですが、一日中頭をひねって知恵を振り絞って形(言葉)にならなかったことで落ち込み、一晩寝たら突然ポンっと形になることで気分が晴れるという、気分の上げ下げの激しい時期でした。
2002年のバリ島での爆弾テロ後に観光客が忽然と消えてしまい、デンパサールとサヌールで開いていたブティックの売上が悲惨な状態となり、人員カットしたり、暇している従業員にネックレスを作らせて販売したり、なんとか売上を出して店をやりくりした経験が多少なりとも生きていたかもしれません。
8月~9月:内省の時期
厳しい時期に仕事をいただけることのありがたさ、他人の優しさを身に染みて感じた時期であり、バリ島からジャカルタに引っ越すまでの1年間、ニート生活をしていた時期の心境に重なりました。
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バリ島のニート生活で学んだ感謝の気持ちを思い出してみた。【暇過ぎるよりも忙し過ぎるほうが良い】
人間は極端な環境の変化に順応できるほど強い生き物であり、その場に居るときはありがたさが理解できない生き物であり、心細いときほど人の優しさが身にしみる生き物です。コロナ禍の影響で仕事が激減する中で、かつてバリ島で会社を解散しニート状態のまま一年間過ごした経験が生かされるとは思いませんでした。
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ITの仕事は「システム屋」という立場でやれば、業務をデジタル化するだけで、それによって生まれる効果を軽視しお金に執着するようになりますが、「問題解決屋」という立場でやれば、お客が抱えている問題をなんとか解決したいという本来の基本姿勢に立ち戻れると考えています。
学生時代にインドでシタールの先生から言われた言葉「演奏のすべては声楽が基本であり、自分の体も楽器の一部であり、たまたまシタールを持っているから自分の歌声がシタールの音色になる」、これはITの仕事でも言えることで、あくまでもシステムは問題解決のためのツールに過ぎないわけです。
制約条件の理論であるTOC理論(Theory Of Constraints)では、問題解決のために一番効果が出るのがボトルネックの改善であると説かれるように、格闘技(パンクラチオン)の関節技では、どこをきめれば相手が倒れるかという理論体系があるように、システムをいかに業務に当てはめるかではなく、業務のどこを改善すれば最大の効果が生まれるかを考え、それをシステムというツールを使って実装するというのが本来あるべき姿です。
問題解決が目的であればツールは何でもよい、そうだとすれば引き出しは多いほうが対応しやすくなるということで、過去の自分の経験と知識の棚卸を行い、業務改善のコンサルに役立つように、知識を体系化する作業を行いました。
10月以降:回復の兆しが見え始める
9月14日からジャカルタで再強化されていたPSBBが10月11日に打ち切られ、「健康的で安全、生産的な社会に向けた移行期」が再開されたことで、インドネシアの日系製造業も本格的に生産を再開することになると考えられ、実際にお客様の反応や新規のインバウンドのお問い合わせなど、IT投資への意欲が若干上向きになっている兆候が見られます。
10月に入って少しずつインドネシア現法によるIT投資も回復しているのを感じるのでこのまま経済活動回っていくように🙏

かつてインドネシアで経験した1997年~1998年の通貨危機(政治的要因)、2002年のバリ島での爆弾テロ(宗教的要因)による不景気、2008年のリーマンショック(金融的要因)に続く今回のコロナパンデミックでの負の経験は、次に来る不景気への対応のために生かすことで元を取るくらいの意気込みで、前向きに乗り越えていくしかないと思います。