インドネシアで経験したコロナ禍のビジネスへの影響と心境の変化

2020/10/16

ジャカルタ

インドネシアでのITビジネスがコロナ禍の影響を受ける中で、半年間の心境の変化を振り返りました。絶望し暗中模索する中で、バリ島爆弾テロやリーマンショックによる不景気の体験が役立ったように、今回のコロナ禍による体験も来るべき次の不況への備えとなるはずです。

ジャワ

インドネシア生活における思考と感情

人間は弱い生き物ですから感情に支配されて勘定の赴くままに意思決定したり行動したりするものですが、結果は得てして非合理的なものになりがちなので、相手の感情を汲み取りながらも自分は感情に流されない合理的な思考訓練が重要だと考えます。

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「コロナ禍」という言葉が一般化したのが半年前

日本で新型コロナウィルスに対する意識が高まったのは、2月4日に横浜港に寄港したダイヤモンドプリンセス号でクラスターの発生が確認された頃だったと記憶していますが、「コロナ禍」という言葉がはじめて全国各紙で使用され一般的になったのは4月中旬ですから、10月中旬にあたる現在まで半年が経ったことになります。

中国、日本、韓国と感染者が増えていく一方で、何故かインドとインドネシアでは感染者が出ておらず、これは高温多湿な気候に守られているからだとか、インドのカレーやインドネシア料理全般で使われるkunyit(ウコン)が病気の予防に役立っているとか、一種の優越感を持ってインドネシア人も在住日本人も安全圏から見ていました。

ところが2020年3月にインドネシア初の感染者が日本人と接触したのが原因らしいと政府発表があったせいで、在住日本人はこれまで経験したことのない「偏見」または「差別」という不安の底に突き落とされました。

弊社には3月19日に労働省(Dinas Tenaga Kerja dan Transmigrasi)から、新型コロナウィルスに関する現地調査という名目の不法就労取り締まりのための抜き打ち検査が入り、3月末にはオフィスを閉鎖して在宅勤務に切り替えるよう指示を受け、4月に入りジャカルタのPSBB(大規模社会制限)が始まる頃が、弊社にとってのまさしくコロナの禍(わざわい)の始まりでした。

朝一で労働省(DISNAKER)から検査が入り直近の出入国日や咳の症状が出た日を調査、以下書類を求められましたのでご参考までに

1.会社設立証明書
2.労働報告義務 WLK
3.KTP(家族全員)
4.NPWP
5.営業許可書 (SIUPまたはNIB)
6.就業規約PP(従業員10名以上の場合)
7.従業員の給料一覧
8.BPJS支払いの証拠

今考えると最初の4月~5月の2か月は、突然事業環境が変化し従来どおりの営業活動で全く成果が出ず戸惑っていた時期であり、次の6月~7月はあの手この手で先の見えない現状を打開するために暗中模索していた時期であり、後半の8月~9月になって過去の自分の考え方を内省していた時期だったように思えます。

4月~5月:魚の居ない池に釣り糸を垂らしているような時期

当時あった仕事の引き合いがペンディングになり、新規のIT化の案件の話がゼロになり、メールや電話でのインバウンドのお問い合わせが無くなり、メールでのアウトバウンドの営業に対する反応が芳しくなくなるまでの事業環境の変化は、ジェットコースターの頂上から一気に底辺に落ちるかのようにあっという間に起こってしまいました。

「コロナ禍」という言葉が4月半ばから使われるようになってちょうど半年くらい経つわけですが、魚の居ない池で釣りをする気分と暗闇の中を手探りで進む気分は十分過ぎるほど満喫出来ました。

自分の置かれている状況すらよく理解できておらず、ただ従来どおりのやり方を続けるだけだった最初の2か月間は、例えて言えば「魚の居ない釣り堀に釣り糸を垂らしている」ような感覚で、先行きの見えない中であせりと不安だけが募っていきました。

6月~7月:暗がりの中を手探りで進む時期

いつかコロナ禍が終了した後に、振り返ってみて一番辛かったと言うと思われるのがこの時期がであり、コロナ禍に合わせた業務改革の必要性についてのウェビナーを開催する一方で、自分の会社ではどのように収益改善や業務改善を行ったら良いのか分かっていないという矛盾を抱えたまま、とにかく何かやってみる、やりながら方向修正していくというフォワード志向で暗中模索している状態でした。

コロナ禍で仕事のやり方は変わらざるを得ず、それで効率化が進むのならいいことだと思うが、それでも何でやるのか明確に説明できないが、やった先に何か見えてくるんじゃないかという宗教的な部分は必ず残ると思う。

僕の場合、何か新しいものを生み出すための思考パターンとして、過去の自分の経験や、ネット上の海外の事例を抽象化し、コロナ禍の中のインドネシアで実現するための具象化を行うのですが、一日中頭をひねって知恵を振り絞って形(言葉)にならなかったことで落ち込み、一晩寝たら突然ポンっと形になることで気分が晴れるという、気分の上げ下げの激しい時期でした。

2002年のバリ島での爆弾テロ後に観光客が忽然と消えてしまい、デンパサールとサヌールで開いていたブティックの売上が悲惨な状態となり、人員カットしたり、暇している従業員にネックレスを作らせて販売したり、なんとか売上を出して店をやりくりした経験が多少なりとも生きていたかもしれません。

8月~9月:内省の時期

厳しい時期に仕事をいただけることのありがたさ、他人の優しさを身に染みて感じた時期であり、バリ島からジャカルタに引っ越すまでの1年間、ニート生活をしていた時期の心境に重なりました。

バリ島での1年間のニート生活で学んだ人生の教訓。一つ目は人間は極端な環境の変化に順応できるほど強い生き物であるということ。二つ目は人間はその場に居るときはありがたさが理解できないこと。三つ目は人間は心細いときほど人の優しさが身にしみるということ。
バリ島のサンセット

バリ島のニート生活で学んだ感謝の気持ちを思い出してみた。

人間は極端な環境の変化に順応できるほど強い生き物であり、その場に居るときはありがたさが理解できない生き物であり、心細いときほど人の優しさが身にしみる生き物です。コロナ禍の影響で仕事が激減する中で、かつてバリ島で会社を解散しニート状態のまま一年間過ごした経験が生かされるとは思いませんでした。

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ITの仕事は「システム屋」という立場でやれば、業務をデジタル化するだけで、それによって生まれる効果を軽視しお金に執着するようになりますが、「問題解決屋」という立場でやれば、お客が抱えている問題をなんとか解決したいという本来の基本姿勢に立ち戻れると考えています。

学生時代にインドでシタールの先生から言われた言葉「演奏のすべては声楽が基本であり、自分の体も楽器の一部であり、たまたまシタールを持っているから自分の歌声がシタールの音色になる」、これはITの仕事でも言えることで、あくまでもシステムは問題解決のためのツールに過ぎないわけです。

制約条件の理論であるTOC理論(Theory Of Constraints)では、問題解決のために一番効果が出るのがボトルネックの改善であると説かれるように、格闘技(パンクラチオン)の関節技では、どこをきめれば相手が倒れるかという理論体系があるように、システムをいかに業務に当てはめるかではなく、業務のどこを改善すれば最大の効果が生まれるかを考え、それをシステムというツールを使って実装するというのが本来あるべき姿です。

問題解決が目的であればツールは何でもよい、そうだとすれば引き出しは多いほうが対応しやすくなるということで、過去の自分の経験と知識の棚卸を行い、業務改善のコンサルに役立つように、知識を体系化する作業を行いました。

10月以降:回復の兆しが見え始める

9月14日からジャカルタで再強化されていたPSBBが10月11日に打ち切られ、「健康的で安全、生産的な社会に向けた移行期」が再開されたことで、インドネシアの日系製造業も本格的に生産を再開することになると考えられ、実際にお客様の反応や新規のインバウンドのお問い合わせなど、IT投資への意欲が若干上向きになっている兆候が見られます。

オレンジと白のハイビスカスが織りなすコントラスト。長い活動制限期間中にオンラインで購入した植物達が庭ですくすく成長しており、私自身も随分と植物に詳しくなりました。10月に入って少しずつインドネシアの日系企業によるIT投資も回復しているのを感じるのでこのまま経済活動回っていくように🙏

かつてインドネシアで経験した1997年~1998年の通貨危機(政治的要因)、2002年のバリ島での爆弾テロ(宗教的要因)による不景気、2008年のリーマンショック(金融的要因)に続く今回のコロナパンデミックでの負の経験は、次に来る不景気への対応のために生かすことで元を取るくらいの意気込みで、前向きに乗り越えていくしかないと思います。

インドネシアで経験したコロナ禍から得た教訓

腰痛にはしょぼい腰掛が良い

今朝約2ヶ月半ぶりにオフィスを掃除しに行ったら、何故か机も床もピカピカに磨いてあって拍子抜けしたのですが、弊社が在宅業務期間中に建物の管理担当者が男から女に交代していて、ああやはり女性のほうが仕事が丁寧だと改めて感じました。

PSBB(Pembatasan Sosial Berskala Besar)期間中は客先訪問も出来ず、プロジェクトが思うように進まず気持ちが焦る一方で、ジタバタしてもしょうがないやというあきらめの気持ちとが入り混じってモヤモヤしていましたが、ずっと家に引きこもっていたからこそ見えてきたことが3点あります。

一つ目が腰痛との付き合い方。

昨年のLRT工事渋滞で毎日工業団地まで往復5時間以上運転する日々が続き、右足の太ももをつねったときの感覚が左足に比べて弱く、背骨の腰から少し上あたりが若干腫れ気味で、調べると典型的な座骨神経症の症状がありました。

背もたれなしのしょぼ椅子を使い始めてから腰痛改善しており、一方で背もたれなし椅子ダメという説もあり、これはコーヒーは1日何倍飲んでいいのか議論と同じで、要は長時間同じ姿勢ダメということ。しょぼ椅子がいいというより、自由度が高いので足の体勢を頻繁に変えたのが結果的に腰に優しかった。

当初使っていた、背もたれが首付近まである高価な事務用チェアで長時間作業すると、どうしようもなく腰が痛くなり、これを木製ダイニングチェアに変えたところ、一時的に腰痛が軽減されるものの、やはり長時間の作業には耐え切れず、やけっぱちで安い背もたれなしの腰掛に変えたところ随分と調子が良くなり、既にかれこれ3か月以上愛用しています。

理屈としては背もたれがないため自然と腹筋を使って体を支えるようになったことと、下半身の自由度が効くので足の位置を頻繁に変えることで血流が良くなったことが原因だと考えているのですが、もししょぼい腰掛が本当に腰痛に効くのであれば、我ながら画期的な発見だと思っています。

日常生活に無駄な動きはない

二つ目は日常生活に無駄な動きはないということ。

客先の工業団地に行かなくなったので時間だけは有り余るほどあり、毎朝6時に起きてホウキとモップで家中を掃除し、庭の植物に水を撒き肥料を投与し害虫駆除液を散布するという作業までを、一通り2時間ほどかけてやるようになりました。

理由は、わざわざジムに行ったりウォーキングのために外に出るよりも、これらの作業をすることで運動不足が解消されるだけでなく、家も綺麗になり一石二鳥だからと考えるようになったからです。

日常生活において無駄な動きなんてないんですよ。掃き掃除もモップ掛けも洗車も、すべての動きは健康的な生活を維持するのに必要な運動だったのです。PSBB(大規模社会制限)の自粛生活で達観しました🙏

イチロー選手が空き時間があれば、いつも当然のようにストレッチをやっていたのと同じように、すべての作業は常に体を軽快に動かすために必要な日常生活運動という考え方なのですが、ポイントは作業の始まりも終わりもなく、仏教的に言うと「無始無終」の状態で無意識にやるということであり、これを突き詰めると「面倒臭い」という概念すら無くなるのです。

立ち止まらずに動くこと

三つ目はどんな状況でも立ち止まらずに動くということ。

仕事の実務が減り、外出しないので移動が減り、人と会う機会まで減ると、ポストコロナ禍を生き抜くためのアイデアを考えなければと気持ちだけが焦って、自分の中で閉塞感に陥りがちなのですが、状況が厳しいときは厳しいときなりに、とにかく何かをやり続ける過程で、打開のための糸口が浮かんでくるということです。

この2か月半の間、外部との接点はオンラインしかなかったわけですが、ちょっとした気づきや心の動きををツイートしたり、自分の頭の整理のためにブログを書いたり、とにかくじっと引きこもっているだけでなく、常に何かを発信することを心掛けていました。

本来はブログ記事なんて実務やリアルの生活からしかネタが浮かばないものですが、外出自粛生活の中でもネタが無いなら無いなりに、インドネシアの時事問題の理解を深めるために、detikやkompasのツイートの引用した上で、関連知識まで深堀りしたり過去の自分の体験を絡めたりして、メディアの情報を血の通った自分の知識にまで昇華する過程で、理解がより深まるだけでなく文章の書き方の勉強にもなりました。

SNSやブログなどでは、フォロワーさんや読者さんの立場で情報発信することが大切なのかもしれませんが、それ以上に自分が今一番知りたいこと、書きたいことを発信するという、自分本来のオンラインでの人との付き合い方を再確認しました。