インドネシアの独立は、オランダによる長期間の植民地支配や日本軍政による支配を経て、民族主義の勝利として成し遂げられました。この独立は、インドネシア人が自力で勝ち取ったという誇りを心に刻んでいます。
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インドネシアの歴史年表と時代区分|王朝・植民地支配・独立・大統領政権の全体像
5世紀頃、中部ジャワに仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタが文化として浸透しました。1602年、オランダは東インド会社を設立し、植民地支配を拡大しました。行政の中心地バタビアは現在…
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この記事でわかること
- インドネシアは1945年8月17日に独立を宣言しました。
- 独立はオランダと日本の支配を経て達成されました。
- 独立宣言書には日本の皇紀が使用されていました。
- 日本軍政はインドネシアの独立に影響を与えました。
- 独立は民族主義の勝利として記憶されています。
インドネシアはどこから独立したのか?日本・オランダ・帝国主義という複雑な背景
毎年8月17日はインドネシアの独立記念日で、公的機関や学校では記念式典が行われ、住宅街ではクルプック食い競争(Lomba Makan Kerupuk)で盛り上がり、スタバではドリンクが半額になることもあります。
インドネシアで仕事をしている人にとっては一般常識かもしれませんが、インドネシアがどこの国から独立したのかという質問に対して、オランダから独立したという人もいれば、日本の軍政からの解放だという人もいます。特定の国ではなく、帝国主義に基づく植民地支配からの独立だという意見もあります。
- 1602年:東インド会社の進出によりオランダ領東インドとなる。
- 1943年2月:日本軍の侵攻によりオランダ植民地統治が崩壊し日本の軍政下に入る。
- 1945年8月12日:スカルノ・ハッタは大日本帝国陸軍の南方軍総司令官である寺内寿一から独立の言質を得る。
- 1945年8月15日:日本の終戦記念日で、天皇陛下による玉音放送でポツダム宣言受諾を伝えた日。
- 1945年8月16日:前田精海軍少将がスカルノとハッタを公邸に受け入れ、独立宣言の打ち合わせを行う。
- 1945年8月17日:スカルノ邸でインドネシア独立宣言書を読み上げる。
- 1945年:再進してきたオランダ軍・イギリス軍との独立戦争。
- 1949年:名実共に独立。
8月になると、街にインドネシア国旗が目立ち、記念行事に向けて準備が進められます。テレビでは独立を祝う愛国歌が流れますが、「日本から独立を勝ち取った」という視点はあまり見られません。
日本軍によるインドネシア進駐時の映像は流れますが、「大日本帝国軍政からの独立バンザーイ」といった対立構図は感じられず、反日を煽るスローガンも聞かれません。

インドネシアの独立が日本からでもオランダからでも構いませんが、過去の3年半の間に日本がインドネシアに進駐していた事実に対する申し訳なさと、その国で働かせてもらっていることへの感謝の気持ちは忘れないようにしています。

過去の話をほじくり返して、日本は反省が足りないとか、民間レベルで賠償するべきだという主張には嫌悪感を覚えます。逆に、大日本帝国の南方作戦はアジアの植民地主義からの解放が目的だったという主張にも辟易しています。
大日本帝国の侵略戦争によってインドネシアの民衆に及ぼした傷は正当化されるべきではなく、国家レベルでの戦後賠償が必要であり、そのため1958年に日本=インドネシア平和条約が締結されています。
その賠償貿易にからむ日本の商社とスカルノ政権との商戦を描いたのが、深田祐介著「神鷲(ガルーダ)商人」であり、スカルノ大統領の第三夫人となったデヴィ夫人が利権争いの中で翻弄され、したたかに生き抜いていく物語です。
インドネシア独立における日本軍政の影響とは?皇紀・PETA・独立宣言に見る複雑な歴史
インドネシアに来た当初、カラオケ屋のお姉さんから「日本に支配された3年半はオランダの350年間の植民地支配よりも苛烈だったのよ」とニコニコしながら言われたときは、笑ったほうがいいのか謝ったほうがいいのか対応に困ったことがあります。
インドネシアを含む東南アジアへの日本軍による南方作戦が侵略戦争だったのか、解放戦争だったのかと聞かれれば、石油資源確保のための侵略が、結果的にヨーロッパからの解放に繋がったということになると思います。
結果としてインドネシアの独立を促したことは日本軍政の正の遺産として評価されるべきですが、それをもってromusha(ロームシャ)というインドネシア語が出来上がったほどに苛烈だった強制労働や、日本語や皇紀という日本文化の強要などの負の遺産を帳消しにできると、日本人の口から言うことは控えるべきだと考えます。
侵略された国側の感情は侵略した側には想像できないものがあることも理解しますし、カラオケ屋のお姉さんから日本の支配が苛烈だったと言われれば反論するつもりは毛頭ございません。
ただ1945年の敗戦前後、敗戦前後の大日本帝国陸軍と、スカルノとハッタという独立運動家を中心メンバーとした独立準備調査会の間で、インドネシアの独立を進める方向で一致していたことは確かな史実です。
そして1945年8月17日にスカルノ邸前で独立宣言書が読み上げられることになるのですが、10万ルピア紙幣の図柄にもなった独立宣言書の日付の年が、皇紀2605年を意味する「05」になっているのです。
P R O K L A M A S I
- Kami, bangsa Indonesia, dengan ini menyatakan kemerdekaan Indonesia.
Hal-hal yang mengenai pemindahan kekuasaan d.l.l., diselenggarakan dengan tjara saksama dan dalam tempo yang sesingkat-singkatnya.
Djakarta, hari 17 bulan 8 tahun 05
Atas nama bangsa Indonesia,
Soekarno/Hatta.宣言
- 我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
ジャカルタ、05年8月17日
インドネシア民族の名において
スカルノ / ハッタ
日本書紀の記述にある日本の初代天皇である神武天皇が即位した紀元前660年を元年として紀年した皇紀は、当時の日本軍政下のインドネシアにおいて、強要されていたものであるとはいえ、これがインドネシアの独立宣言書の日付に採用されていることは、当時の帝国陸軍と独立準備委員会の関係は、単純な支配者と被支配者という対立構図の中にあったわけではないことが想像できます。
そして1945年8月15日の日本の敗戦の2日後の17日にインドネシアの独立が宣言された後に、再度インドネシアへ再進してきたオランダ軍とイギリス軍と中心となって戦ったのが、大日本帝国陸軍が創設した郷土義勇軍(PETA=Pembela Tanah Air)であり、そこに敗戦後インドネシアに残った旧日本兵が参戦したことはインドネシアでも知られた史実です。
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じゃがたらお春とジャカルタの歴史的変遷
じゃがたらお春は1625年にバタビアに追放され、成功を収めました。ジャカルタの地名は16世紀のJayakartaから1945年にJakartaに変わりました。オランダ領東インド時代、多くの日本人が商業活動を通じて現地社会に関与しました。
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植民地支配からの独立
西ブカシの映画館で「Bumi Manusia(人間の大地)」を観てきました。この映画は、プラムディア(Pramoedya)の「ブル島4部作」の第一部を映画化したもので、181分の大作です。インドネシアでは映画の鑑賞料金がRp.25,000と非常に安く、逆に申し訳ない気がします。

プラムディアはインドネシア共産党(PKI)との関係を疑われ、政治犯として投獄されました。その作品はスハルト政権下で発禁処分となりましたが、1998年のスハルト政権崩壊後に釈放され、彼の業績は世界で評価されました。「アジアのノーベル文学賞最有力候補」とも言われています。
この映画は、植民地支配下での社会や法の中での差別と偏見に対抗し、支配者側から人間としての権利と民族の誇りを取り戻そうとするジャワ人の主人公の物語です。アイデンティティの確立や民族主義の覚醒というテーマは、日本人には想像しにくいかもしれません。
インドネシアにとっての独立は、時系列的には日本からの独立ですが、実際にはオランダによる350年間の植民地支配と3年半の日本軍政を経て形成された民族主義の勝利です。これは「支配からの独立」とも言えます。
事例:350年近くに渡る支配からインドネシア人自らが勝ち得た独立であり、1945年8月17日は日本軍政下にあっただけです。日本からの独立であるにもかかわらず、毎年8月17日に日本人が特に気まずい思いをしないのは、この歴史的経緯があるからだと思います。