イスラム教やキリスト教では、現世での罪を神に贖罪した者だけが天国へ行けます。しかし、仏教には神は存在せず、死んだら皆仏になり、禅の修行で執着を捨てることで煩悩から解放され、解脱します。執着を捨てて身辺整理をすることで、本当に大事なものに気づくことが重要だとされています。
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イスラム教徒が多数派のインドネシアで宗教と共に生きる|文化・習慣・歴史から学ぶ信仰の実態
インドネシアでは多様な宗教的出来事が日常的に見られる。5世紀からの宗教の歴史的変遷が地域ごとの独自の宗教色を形成。民主化の進展とシャリーアとの共存がインドネシアの特徴。
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この記事でわかること
- イスラム教のラマダンはイスラム暦の9月に行われ、今年は5月6日から6月4日まででした。
- レバランはインドネシアで最大の祭日で、都市圏人口3,200万人のうち2,000万人が帰省します。
- 仏教では神は存在せず、死後に成仏し、三業を鍛えることで煩悩から解放されます。
- 日本語の『罪』は神に対するものと人に対するものの区別がなく、仏教や神道の影響があります。
- やましたひでこさんの『断捨離』は、モノへの執着を捨てて心を解放することを重視しています。
イスラム教と仏教に見る「罪」と「救い」の違い|ラマダン、レバラン、断捨離の思想を比較
イスラム教のラマダンは、イスラム暦の9月にあたる期間で、5月から6月まで行われます。この期間中、信者は夜明け前から日没まで断食を行い、空腹や自己犠牲を通じて飢えた人々への共感を学びます。6月5日は断食月明け大祭であるレバランが行われ、インドネシアでは2億2千万人のイスラム教徒にとって最大の祭日です。
事例:ジャカルタでは、レバラン期間中に都市圏人口3,200万人のうち2,000万人が帰省するため、通常は世界最悪の渋滞と言われる道路が閑散とします。一方で、田舎に向かう高速道路は激しい渋滞が発生し、普段5時間で行ける西ジャワのチレボンまで12時間かかることもあります。
要点:レバランはインドネシアにおける重要な祭日であり、都市部と田舎での交通状況に大きな影響を与えます。
レバラン休み明けには、インドネシア人スタッフから「Mohon maaf lahir dan batin」という挨拶を受けます。これは「行動と思ったことの全ての罪をお許し下さい」という謝罪の言葉で、異教徒である私がこの言葉を受け取ることに戸惑いを感じることもあります。
イスラム教やキリスト教はユダヤ教から派生し、現世での罪を神に対して贖罪する考え方が根底にあります。イスラム教では、Zakat Fitrahという形で貧しい人々に喜捨する行為が具体的な贖罪方法の一つです。これにより人間は罪と苦しみから解放され、最終的に神に許しを求めます。
日本語の「罪」と仏教的な執着の概念から見る信仰と心の解放の違い
以前、日本在住のインドネシア人クリスチャンとの会話で、インドネシア語では「罪」が神に対するものは「dosa」、人に対するものは「kesalahan」や「kriminal」と区別されるのに対し、日本語では「罪」が刑事犯罪にも神の教えに反することにも使われるのは不思議だと言われたことがあります。
これは仏教や神道において、神に許しを請うという概念がないため、日本語の「罪」は相手が人であるか神であるかの区別がないからだと考えられます。仏教では、神は存在せず、死後に成仏し、生きている間に「身(体)と意(心)と口(言葉)」の三業を鍛えることで煩悩から解放されることが目指されます。
事例:仏教の修行である禅では「拘りを捨てる、執着を捨てる」という教えがあり、これはヒンドゥー教のヨガの「断行・捨行・離行」から派生しています。やましたひでこさんの「断捨離」は、モノへの執着を捨てて心をストレスから解放し、本当に大事なものに気づくことを重視しています。
要点:仏教的な修行は、執着を捨てることで心の解放を目指し、現世での幸せを追求するものです。
また、仏教での供養は、死者の霊に供え物をするのではなく、現世に生きる人を敬い、命を授かったことに感謝する意味が強いです。断捨離や観仏供養でお別れを告げるのは、モノや故人そのものではなく心の中の執着であり、これが罪の根源である三業を鍛える修行の一つと考えられます。
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