インドネシアの大統領選挙と歴代大統領の変遷

2018/09/26

インドネシアの大統領選挙と歴代大統領の変遷を構造化した図解

初代大統領スカルノは、1965年の9月30日事件と3月11日事変後にスハルトに政権を委譲しました。1998年の暴動による社会混乱を機に、副大統領のハビビが大統領に昇格しました。1999年の自由な政党活動の下での総選挙では、闘争民主党が第一党となりましたが、大統領指名選挙でワヒド大統領が誕生しました。

インドネシアの歴史年表と王朝から大統領政権までの全体像を構造化した図解

インドネシアの歴史年表と時代区分|王朝・植民地支配・独立・大統領政権の全体像

5世紀頃、中部ジャワに仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタが文化として浸透しました。1602年、オランダは東インド会社を設立し、植民地支配を拡大しました。行政の中心地バタビアは現在…

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この記事でわかること

  • スカルノからスハルトへの政権移譲は1965年の事件後に行われました。
  • 1998年の暴動を機にハビビが大統領に昇格しました。
  • 2004年からインドネシアでは大統領の直接選挙が始まりました。
  • ジョコウィ大統領は庶民派として人気を集めました。
  • 2024年の選挙でプラボウォが大統領に選ばれました。

インドネシアの歴代大統領の決まり方

2019年の大統領選挙(Pemilu Pilpres Pileg Indonesia 2019)に向けての選挙運動(Kampanye)が解禁され、投票用紙に印字される順番が決まりました。ジョコウィ現職大統領・マフル副大統領候補組が1番、プラボウォ大統領候補・サンディアガウノ副大統領候補組が2番となりました。一般的には2番のほうがHOKI(運)があると言われています。

この選挙は、大統領選挙Pilpres(Pemilihan Presiden)と立法府(DPRとDPD)議員選挙Pileg(Pemilihan Legislatif)、地方議会議員選挙(DPRD)を一緒に行う総選挙(General Election)です。日本で言えば、首相指名選挙と衆参両院ダブル選挙、地方議会選挙を同日に行うようなものです。

  • DPR(Dewan Perwakilan Rakyat)は国民代表議会で、議員数575人から成る立法府です。日本の衆議院に近いです。
  • DPD(Dewan Perwakilan Daerah)は地域代表議会で、35州のDPRDから各4名ずつ選出するので議員数140名です。日本の参議院に似ていますが異なります。
  • DPRD(Dewan Perwakilan Rakyat Daerah)は地域国民代表議会で、日本の地方議会のようなものです。

1999年に初めて自由な政党活動が解禁され、国民全体が大いに盛り上がった総選挙が行われました。この選挙で、国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)内で大統領選挙が実施され、ワヒド(グス・ドゥル)第4代インドネシア大統領が誕生しました。国民による直接選挙で大統領が決まるようになったのは、2004年の大統領選挙でスシロ・バンバン・ユドヨノ(SBY)氏が現職メガワティ大統領を破り、第6代インドネシア大統領に就任した時が最初です。

  1. スカルノ大統領 1945年

    8月17日独立宣言後

  2. スハルト大統領 1965年

    9月30日事件クーデター沈静後

  3. ハビビ大統領 1998年

    スハルト氏退陣に伴い副大統領から昇格。

  4. ワヒド(グス・ドゥル)大統領 1999年

    政党活動が自由化され、政党が乱立する状況で行われた総選挙の結果、第1党PDI-P、第2党ゴルカル党、第3党PKBという状況での、MPR内での大統領指名選挙後。副大統領にメガワティ氏。

  5. メガワティ大統領 2001年

    ワヒド大統領弾劾に伴い副大統領から昇格。

  6. SBY(ユドヨノ)大統領 2004年

    最初の国民による大統領直接選挙で現職メガワティ氏を破る。2009年もメガワティ氏を破り再選。

  7. ジョコウィ大統領 2014年

    ソロ市長、ジャカルタ特別州知事を経てプラボウォ氏を破って当選。

  8. プラボウォ大統領 2024年

    ジョコウィ政権の開発優先政策の継承と、副大統領にジョコウィ氏の長男ギブラン氏を擁立し、ジョコウィ人気をうまく利用したプラボウォ氏が、ジャカルタ首都特別州知事アニス氏などを破って、3度目の正直で念願の初当選。

スハルト大統領退陣1998年5月

インドネシアのスハルト第2代大統領が印刷された5万ルピア札

私がインドネシアに初めて来たのは1997年10月で、当時はスハルト政権の一党独裁の時代でした。赤く小さめの100ルピア札や、緑が鮮やかなオランウータン図柄の500ルピア札が流通し、最高紙幣の5万ルピア札には現役大統領が印刷されていました。これを見て、独裁国家とはこういうものかと感心したことを覚えています。

32年間続いたスハルト政権では、KKN(汚職、談合、縁故主義)が蔓延し、政治・行政面で多くの問題を抱えていましたが、経済面でのインドネシアの安定的発展は評価され、「ASEANの盟主」として国際社会に認知されていました。

私は1997年7月に東京の銀行系システム会社からジャカルタのIT会社に転職を決めましたが、その直後にタイ通貨危機に連鎖してインドネシア通貨危機(クリスモン)が発生しました。これにより、インドネシアルピアは急落し、ルピア建ての給料の価値が円換算で4分の1にまで目減りしました。

1998年には燃料価格が急騰し、タクシーの初乗り料金が頻繁に値上がりするような状況でした。9つの生活必需品(Sembako)の値上がりに一般庶民の不満が募り、スハルトファミリーだけが私腹を肥やしているという批判が公然と聞かれるようになりました。学生を中心としたデモがMPR前に集結し、政治の不安定と経済混乱からの改革を訴える行動が激化していきました。この動きはジャカルタ暴動(Kerusuhan Mei 1998)につながりました。

当時、私はKuninganから南ジャカルタのスミットマスビルにあるBank Sumitomo Niaga(のちのBank Sumitomo Mitsui Indonesia)までタクシーで通勤していましたが、スマンギ交差点近くのアトマジャヤ大学での学生集会が激化し、夕方のスディルマン通りの交通はデモの影響でほとんど麻痺状態になっていました。

タクシーがないためスディルマン通りを歩いて帰る途中、アトマジャヤ大学前で学生デモ隊と警察が対峙しており、野次馬に混じって見学していると、突然銃声が響き渡りました。私はIBM Think Padの入ったカバンで頭を防御しながらビルの裏に逃げ込みました。

5月13日の午前中、スミットマスビルで仕事をしていると、タムリン通りにあった会社から「車で迎えに行くので外に出ないように」との電話がありました。窓の外を見ると、焼き討ちによる煙が立ち上り、閑散としたスディルマン通りの北からフロントガラスを破壊されたセダンが走ってくるのが見えました。

スミットマスビルの裏Senopati通りからMampang方面に向かいましたが、交差点に群集が集まっているのを見て即Uターンしました。大型スーパーGOROから略奪した戦利品を運ぶ人々を避けながら徘徊すること4時間あまり、学生のデモに紛れてスディルマン通りを北上し、装甲車が行き交う中で無事Kuninganの自宅に戻りました。

政治経済の混乱に加え、暴動による治安の悪化に対する国民の不満に屈する形で、5月21日にスハルト大統領は辞任会見をしました。私はインドネシアに来て以来、毎日のようにデモ隊が警察と衝突し、暴力的に鎮圧される光景に胸の高鳴りを覚えました。退陣発表の原稿を読むスハルト大統領がTV画面に映し出されるのを見て、これでお祭り騒ぎが終わるのかと少し物寂しく感じたことを覚えています。

インドネシアの暴動と民主主義の歴史と現状を構造化した図解

インドネシアの暴動と民主主義の成熟:歴史と現状

インドネシアでは、共産主義イデオロギーの脅威を理由に暴動が起きましたが、民主主義の成熟により同じ手法での扇動は難しくなっています。2019年の大統領選挙では、ジョコウィ大統領が再選され、プラボウォ支持者による抗議デモが発生しましたが…

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ハビビ政権 1998年5月~1999年10月

インドネシアのハビビ第3代大統領

テレビで生中継されたスハルト大統領による退陣演説はまだ記憶に新しいところですが、最後のスハルト政権で副大統領だったハビビ氏(B.J. Habibie)が第3代インドネシア大統領に昇格しました。

それまで大統領たるものジャワ人で軍出身でイスラム教徒という3要素が必須と言われていましたが、ハビビ大統領は非ジャワ人(スラウェシ島出身)で非軍人のイスラム教徒で、政治家になる前はドイツの航空会社メッサーシュミットの副社長をしていた人です。

技術者出身の経営者であるハビビ大統領の演説は、インドネシア語の最大の特徴である「抑揚」と「溜め」を存分に効かせたメリハリのあるもので、インドネシア語ってカッコいい、私もハビビ大統領の演説ようなプレゼンができるようになりたいという思いでインドネシア語を一生懸命勉強したものでした。

ハビビ大統領は暫定政権としてのつなぎ役として過小評価される場合が多いですが、権力集中独裁国家から近代民主主義国家への移行への最初の道筋を立てたという点で、重要な役割を果たしました。

スハルト大統領の7期32年に渡る独裁政権を引き継いだハビビ政権は、法の下で職能団体(Golongan Karya)として特別扱いされていたゴルカル党Partai Golkarを、ただの一政党に格下げする政党法・選挙法を立法しました。

1945年の独立宣言時に作成された憲法では、主権は国民協議会(MPR)にあると規定されており、MPRの下に立法府としての国民議会(DPR)、行政府としての大統領、司法府としての最高裁判所、会計検査院(BPK)、最高諮問会議(DPA)という国家高等機関を置き、これら5つの国家高等機関に国家権力を分配するという形式を取り、これをインドネシアでは五権分立と呼ばれていました。

国民協議会(MPR)

  1. 国民議会(DPR)
  2. 大統領
  3. 最高裁判所
  4. 会計検査院(BPK Badan Pemeriksa Keuangan)
  5. 最高諮問会議(DPA Dewan Pertimbangan Agung)

しかし実際はMPRの議員の多くをゴルカル党員である大統領任命議員が占めることで、大統領に権力が集中することとなり、その結果初代大統領スカルノ政権は20年、スハルト政権は32年という長期政権になりましたが、その特権をゴルカル党出身であるハビビ大統領が法改正により放棄させました。

その結果1999年6月の自由な政党活動の下で行われた総選挙では、メガワティ氏率いる闘争民主党PDI-P(Partai Demokrasi Indonesia-Perjuangan)が第一党となり、ハビビ政権は自らの手でゴルカル党による一党独裁時代を終わらせたことになり、これが後の憲法改正による国民主権への動きと2004年に行われる大統領直接選挙に繋がっていきます。

ワヒド(グス・ドゥル)政権 1999年10月~2001年7月

インドネシアのワヒド第4代大統領

1999年に政党活動が自由化され、多くの政党が乱立する中で行われた総選挙は、インドネシア全土での一大お祭り騒ぎとなりました。当時、社内のインドネシア人の中でもPDI-P支持者が多数派で、理屈っぽいインテリ派はアミン・ライス氏の国民信託党PAN(Partai Amanat Nasional)支持、敬虔なイスラム教徒は国民覚醒党PKB(Partai Kebangkitan Bangsa)支持といった具合に、日常の話題は選挙一色でした。「自分の支持する政党に投票できる」ということが、インドネシア人にとって非常に新鮮だったのだと思います。

選挙の結果、PDI-Pが第1党、ゴルカル党が第2党、PKBは第3党となり、国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)内での大統領指名選挙ではゴルカル党に対抗してPDI-PとPKBが連立しました。その結果、インドネシア最大のイスラム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU Nahdlatul Ulama)の議長だったワヒド(グス・ドゥル)第4代インドネシア大統領が誕生しました。これは1994年の自民党・社会党・さきがけ連立政権で誕生した村山総理大臣を思い出させます。

ワヒド大統領は糖尿病の合併症のせいで目が不自由でしたが、ユーモアを交えた庶民的な話し方をする人でした。彼はインドネシアの政治に文民統制(シビリアンコントロール)をもたらした功労者であり、スハルト政権時代に政治支配の土台を支えていた軍を政治から切り離すことを政権の最大課題と位置づけていました。

政治治安問題担当調整大臣だったウィラント元国軍司令官を解任し国軍と対立する中で、結局自身の汚職スキャンダルが足かせとなり、2001年7月にMPRにて大統領罷免が可決され、副大統領のメガワティ氏が大統領に昇格しました。

事例:私はその当時、3年半勤務したジャカルタのIT会社を退職し、バリ島で家具と雑貨の輸出会社を設立し独立した時期でした。バリ島に移住したばかりの2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが発生し、クタの日本食レストランでWTCビルに飛行機が突入する映像を呆然と眺めていた思い出があります。

メガワティ政権 2001年7月~2004年10月

インドネシアのメガワティ第5代大統領

メガワティ大統領はスカルノ初代大統領とファトマワティ第一夫人の長女であり、スカルノ大統領の母親がバリ人であったことから、バリ島にはメガワティ氏率いるPDI-Pの強力な支持基盤がありました。政情不安定なインドネシアの中で、バリ島は安全でテロも発生したことがないという安全神話がありました。

その安全神話が崩れたのが2002年10月です。当時私はデンパサールに家とオフィスを借りて家具と雑貨の輸出の会社として独立したばかりでしたが、10月12日夜11時頃にドカーンという地響きとともに窓ガラスが大きく揺れ、バリ島でも珍しく地震があるもんだなと、それほど気にせず寝てしまいました。しかし、翌朝実家の母親からの電話で前夜の爆音がクタでの爆弾テロの音だったことを知りました。

メガワティ大統領の任期中にはインドネシアでも記憶に残る3つの大きなテロが発生しました。イスラム教徒の割合が9割近くを占めるインドネシアで、イスラム過激派に対する対処は繊細な問題でしたが、2002年のバリ島のテロを契機に、インドネシアはアメリカのテロとの戦いに同調する流れに乗りました。

  • 2002年10月 バリ島KutaのレストランRAJA, レギャン通りのSari club前
  • 2003年8月 ジャカルタのKuninganのJWマリオットホテル。2009年7月に2度目の爆弾テロ。
  • 2004年9月 ジャカルタのKuninganのオーストラリア大使館

クタの爆弾テロ直後のバリ島は観光客が激減し、レギャン通りも閑古鳥が鳴いていましたが、日本の家具屋さんがインドネシアへの渡航を控えると、必然的にバリ島在住の私に仕事が生まれるという流れとなり、島内の観光業が打撃を受けるなかで、自分の会社の景気が一番いい時期となりました。

スハルト政権が退陣してからのインドネシアの政治史の流れの中には、いくつかの重要な課題があります。メガワティ政権では1991年から3政権に渡って続いてきた憲法改正の最終仕上げがなされ、国家の権威の最高機関は国民評議会MPRから事実上DPRに移り、行政、司法、立法が権力分立のため分離され、実行主体の最高権力は行政が大統領、司法が最高裁判所MA、立法が国民議会DPRという三権分立が確立しました。

  1. 自由な政党活動

    ゴルカル党の一党独裁から複数政党による民主政治化。

  2. 文民統制(シビリアンコントロール)

    政治からの国軍の影響を排除。

  3. 憲法改正

    民主国家としての国民主権と三権分立の確立。

  4. テロとの戦い
  5. 貧困削減と雇用拡大による経済成長
  6. 汚職の追及

メガワティ政権に対する印象ですが、テロに対する断固たる対応はアメリカを中心とした西側諸国への忖度と見られ、憲法改正による国民主権の回帰という民主国家としての重要な仕事も実務型の成果で地味で目立たず、そこに来て独裁政権化で蔓延していた汚職が民主化によって一気に目に見える形で追求されるようになり、対応が後手に回ってしまった結果、汚職追求に対して甘い政権という風潮が出来てしまったように思います。

時代はテロとの戦いや汚職撲滅を実行できる強い大統領を求めており、2004年に行われたインドネシア初の国民による大統領直接選挙では、まさしく国民が求める理想の人物像であった元陸軍大将スシロ・バンバン・ユドヨノ(通称SBY)氏が、メガワティ現職大統領を破って第6代大統領に選ばれました。

SBY(ユドヨノ)政権 2004年10月~2014年10月

スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領

2004年のインドネシア初の大統領直接選挙では、スハルト政権下の国軍司令官だったウィラント氏が独裁政権時の国軍の強権イメージを払拭できず、同じ国軍出身でもクリーンなイメージを持つ民主党Partai DemokratのSBYが国民の強力な支持を得ました。

インドネシアでは「スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領」という長い呼称は好まれず、単に「エス・ベー・イェ-」という略語で呼ばれることが多く、愛称がこもった雰囲気があります。

ウィラント氏は1998年5月にスハルト大統領に国軍の安全の保障を担保に辞任を進言し、ハビビ政権下でジャカルタ暴動や国軍による人権侵害の疑惑のあったプラボウォ氏を国軍から解任するなど、政治史上における重要な役割を果たしました。しかし、ワヒド(グス・ドゥル)政権とジョコウィ政権で政治治安問題担当調整大臣を務めたものの、自身の国軍での人権侵害疑惑が付きまとい、インドネシアの政治史の波に乗り切れていない印象があります。

SBY大統領が誕生したものの、支持母体の民主党の議席数は550議席中57議席のみで、ユスフ・カラ副大統領の政党であるゴルカル党の支持がなければ、国民代表議会DPRが立法府としてまともに機能する環境ではありませんでした。しかし、ゴルカル党の党首選挙で反SBYの立場だった現職のアクバル・タンジュン氏がユスフ・カラ副大統領に敗れたことで、ゴルカル党議員の支持を背景に一気に安定政権に変わりました。

ワヒド(グス・ドゥル)政権とメガワティ政権で政治治安担当調整相を歴任していたこともあり、テロの防止と撲滅、2002年に独立した東ティモールに続いてインドネシアからの分離独立を目指すアチェ自由運動(GAM Gerakan Ache Merdeka)の沈静化への期待は大きかったです。しかし、経済面では完全失業率は思うように下がらず、インフラ投資は歳入不足で増やせず、大統領就任直後の12月にスマトラ沖地震が発生し、2008年のリーマンショックの影響でインドネシアの株価は暴落し経済は停滞しました。時勢も悪かったとはいえ、大きな成果は出ませんでした。

事例:2005年頃からバリ島でのビジネスが斜陽に向かい始め、2008年に会社をたたんでジャカルタに戻った直後、リーマンショックによるインドネシア株暴落で痛い目に遭いました。この時期はインドネシアでの明るい思い出が少ない時期にあたります。

ジョコウィ大統領 2014年10月~2024年10月

ジョコ・ウィドド大統領

2014年の大統領選挙は、ジョコウィフィーバーと呼ばれるほどの社会現象となりました。車の中で会社の運転手からジョコウィ氏の素晴らしさや、プラボウォ氏の邪悪さについて毎日聞かされました。ジョコウィ氏は「私利私欲のない普通のおじさん」というイメージと「強力なリーダーシップを発揮する実務家」というギャップで一般大衆を魅了しました。

「ちょいワルおやじ」「脱いだらスゴイ」といったギャップに惹かれるのは人間の本性のようで、ジョコウィ氏は一般大衆を味方につけました。しかし、選挙結果はジョコウィ氏53%に対してプラボウォ氏47%の僅差でした。プラボウォ氏はFacebookやTwitter(X)などのSNS戦略や、バークリー系列テレビ局のTV Oneを使ったメディア戦略を駆使しました。

就任当初、ジョコウィ大統領は清廉潔白な庶民派大統領として評判が高かったです。しかし、多民族国家としての民族間格差解消に積極的な対策を打てず、目立った政治的成果を上げることもありませんでした。2024年の総選挙では、選挙法を改正して30代の長男ギブラン氏を副大統領候補に立候補させ、退任後も一族による政治基盤を盤石にしようとしました。

インドネシア国民の間ではジョコウィ大統領の人気は高く、2024年の大統領選挙ではジョコウィ政権の経済成長重視の政策継承と、ジョコウィ氏の長男ギブラン氏を副大統領候補に据えることで、プラボウォ候補が選挙戦を戦うことになりました。

プラボウォ大統領 2024年10月~

Prabowo

2024年2月の大統領選挙では、プラボウォ氏が圧勝しました。インドネシアの若者層は、彼が暴動を扇動した『特定の勢力』と疑われていることを問わないという選択をしたともいえます。当時の記憶が残る人々にとって、新大統領の就任は複雑な気持ちを抱かせたことでしょう。

40代以上のインドネシア人にとって、プラボウォ氏はスハルト大統領の娘シティと結婚し、陸軍特殊部隊コパススのトップとして、スハルト政権に批判的なイスラム指導者の失踪事件や暴動時の略奪の煽動疑惑に関与しているのではないかという疑念が強い存在です。しかし、これらの事件は20年以上前のことであり、当時未成年だった世代(のちの20代~30代の有権者)にはこのトラウマは薄れています。そのため、排外的保護主義でナショナリズム色の強いプラボウォ氏の主張に惹かれる人も多いのかもしれません。

また、73歳という高齢であることから、『プラボウォは死ぬ前にインドネシアに最後の奉公をしたいはず』という希望的観測も聞かれます。彼の『インドネシア人のためのインドネシア』という主張は、アメリカのトランプ大統領と重なる部分があり、インドネシア人のマジョリティの総意が反映された結果とも言えるでしょう。