供養とは現世に生きる人間に対して行うもの【この世に生まれてきて良かったと考えられること】

本記事の概要

浄土真宗の教えでは、供養とは来世の死者を弔うという意味ではなく、現世に残された人間が命日等の区切りの日に、死者の生前の行為や言葉に思いをめぐらせ、この世に生まれてきた良かったと思えるよう導くことです。

法律的にも宗教的にも天寿を全うすることは正であり、どんな理由であれ故意に命を絶つ安楽死は認められず、延命治療を止めて自然の死を待つという尊厳死は、生きながらえることに対して消極的ではあれども認められます。

仏教における供養とは

先週3年ぶりに福岡の実家に帰省して、代々お世話になっているお坊さんとお会いし、仏教において供養するという言葉の本当の意味について、興味深い法話をいただきました。

一般的に供養するという場合、死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ることを指しますが、浄土真宗での供養とは来世に対して行うのではなく、残されたこの世に生きる人を敬い、尊い命を授かったことに感謝するという、現世に対して行うものであるということです。

地球が誕生したのが46億年前、そして生命体が誕生してから38億年、今ここにある自分の命は突然湧いて出てきたものではなく、この38億年間を脈々と受け継がれてきたものであり、歴史上非常に貴重で尊いものであるはずです。

それなのに、昨今の世知辛い世の中で生きていくなかで、そんな生命の尊さなどを考える余裕はなく、生きるのがつらい、いっそこの世から消えてしまいたい、という感情が湧き上がることもあるのが人間です。

祥月命日(年に一度の命日のこと。月命日は年に11回)といえば、死者を弔い供養する日という後ろ向きのイメージがありますが、そうではなく現世で生きている残された人間が、自分自身の命の尊さについて考え、他人の命を敬う日であると考えることで、来世に逝ってしまった人の死を無駄にせずに、その人の現世での振る舞いや言葉をしみじみと思い出し、自分もこの世に生まれて良かったと考え、残りの人生をいかに生きていくかを考え直すという、前向きで建設的な意味が出てきます。

安楽死と尊厳死に対する仏教とキリスト教の考え方

神から何らかの役割を持たされて、この世に生を受けて誕生し、死んだ後に主の元に帰るというキリスト教的世界観の中では、現世では神に帰依する(頼みとして、その力にすがること)ことが普通なので、仏教のようにこの世に生まれてきた奇跡に感謝し、現世を一生懸命生きようという発想は、相容れないものかもしれません。

それにもかかわらず仏教もキリスト教も、安楽死に否定的で尊厳死はやむを得ずという考えでは概ね一致しているのは、命というものが仏教的に38億年の歴史の中を脈々と受け継がれてきたものであれ、キリスト教的に神から現世で行うべきことを遂行するために与えられたものであれ、天寿を全うすることこそが正しい行いであることで一致しているからです。

日本では法律的には、医者が患者を苦しみから解放させるために、薬の投与で命を絶つ安楽死は認められていませんが、延命治療を止めて痛み止めの処方のみを行い自然死を待つ尊厳死は認められています。

そして宗教的にも医者が患者の命を絶つことは、どんな理由であれ天寿を全うする行為を否定する罪となりますが、延命治療をストップして自然にまかせることは、消極的ではあれ天寿を全うした結果であるとして、ぎりぎりセーフの範疇に入るのです。

キリスト教(クリスチャン)と仏教における命の考え方


今回、実家への帰省のついでに、鹿児島在住の嫁さんの友人(クリスチャンのインドネシア人)に会うため市内に3泊ほどしました。

鹿児島市内は路面電車が今も市民の生活の足として日常的に利用され、地元住人は特に意識はしていないけれども、実は路面電車が街全体をレトロな雰囲気に演出し、観光客を引きつける偉大な観光コンテンツ化しているのは間違いないと思います。

前日まで滞在した水俣のホテルで、カツオやら太刀魚やらの刺身をたらふく食べた結果、たぶんアニサキスが原因で、不定期に襲ってくる胃痛に苦しんでいる自分に対して、クリスチャンである嫁さんの友人は、人間は生まれてから死ぬまでのすべての行いが記載されてある「命の手帳」が存在し、現世での人間の行動はそこに書いてあるとおりになされるという、またまた興味深い話をしてくれました。

すべてあらかじめ手帳に記載されているというのであれば、先に事前にそれを見せてくれていたら食べなかったのに、とも思いますが、キリスト教的世界観を尊重はするが同意はしない自分に対して、人間がこの世に存在する以上、神から何をなすべきかの教示を得ているということを伝えたかったのだと思います。

命に対する考え方は、仏教の場合は、生命の進化の過程の結果として奇跡的にここに命が存在することを認識できるという意味で演繹的であり、クリスチャンの場合は、人間は今ここにある命を手帳の記載どおりに全うしているということを意識することで、人間は神から何らかの教示を得た上で存在しているということを認識できるという意味で帰納的であると言えるかもしれません。